2014年5月26日月曜日
われてもすえに・・・・
崇徳院とおっしゃる方がおいでになった。
ご不幸な方であった。
鳥羽天皇と待賢門院璋子の間のお子様とされるが、
実は、鳥羽天皇の祖父の白河天皇と璋子との間のお子様というのが通説である。
角田文衛さんの「待賢門院璋子の生涯」が詳しく、
それもオギノ式の詳細な説明を交えながら、
璋子は、排卵期には、宿下がりをして白河のもとにいたことを証明しておられる。
文芸書でも医学が学べるのだ(苦笑)
その辺の乱脈な性関係が保元の乱の遠因と言われるのもぬべなるかなであって、
敗者である崇徳院は、讃岐の白峰に島流しになった。
その後も「精神的虐待」を受けたようで、
怨念の塊になって、時の権力者に災を及ぼしたとされる。
後世、倭国の国運をかけたイベントの際には、
タタリを怖れて、帝のご名代が奉賀に参上する習慣ができたそうな・・
WEBによればですが(史料では未確認)
・明治東遷の際に、新政府の成功を祈念した(その甲斐有りました!)
・東京オリンピック開会式が快晴であるように祈願した(ホンマかいな?)
なるほど・・・「崇」徳院とは「たたり」をなすお名前なのか・・・
げに倭国は言霊の国よ。
たたりをなすから「祟」徳院と贈り名されたのか・・・と
お馬鹿なことに長年にわたり、感じ入っていたのだが・・・・(超滝汗)
実は・・・
たたりは「祟」であって「崇」徳院とは別字だと最近気がついた。
つまり「出」るに「示」すと「山」に「宗」ではエラい違いだ!
恥じ入る次第であるが、問題はなぜ気がついたか・・・である。
落語に「崇徳院」という大ネタがある。
崇徳院の御製・・・瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
われても末に あはむとぞ思ふ
をモチームにした「恋煩い」の落語である。
某師匠のCDを聞いているとマクラが「祟と崇」を勘違いするバカ旦那の話題。
ゲラゲラと笑いながら・・・だんだん凍りつく。
変換ミスは、笑ってごまかせるが、こればかりは・・・・
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