2014年7月13日日曜日
仮面 この原始にして奇妙なもの
お能を始めて以来「能面」をどう理解したのがいいのか未だに迷っている。
能面は、伎楽の面の延長線上に位置するとされるし、
基本的に面(おもて)をつけての演劇形式も、伎楽の演舞と同様なのです
つまり、日本の仮面劇は、仏教伝来のころが濫觴なのです。
しかし、仮面自体は人類の文芸への触発と同じくらい古く、縄文時代の土面が残っています。
つまり、人間の精神生活の歴史=仮面の歴史なのです。
仮面の効用は、覆面の機能(正体を隠す)にあるとされますが、
その歴史の鑑み、根源的には、儀式(演劇・祭礼)での役割(多くは超越的なるもの)に
なりきるための道具です。
西洋では、仮面舞踏会であるとか、仮面劇の歴史が中世末期より認識されますが、
その起源はともかくとして、どうも「覆面」の機能が重視されるようです。
それが理由かどうかはわかりませんが、現在では廃れきった芸術形式となってしまい、
その実像もよくわからないままになっています。
一方で、仮面舞踏会は、形を淫靡にあるいは陽気に変えて、未だしぶとく生き残っています。
今年のハローウインは、狂乱も騒乱は、どうなるんでしょうねえ。
密室でのセクシャル◯Mパーテイ(映画:アイズ・ワイド・シャットにも登場します)も
ひそかに隆盛をきわめているのでしょうか?
ロミオとジュリエットも、仮面舞踏会であったがゆえに恋に堕ちたのかもねえ・・・
しかし、倭国の風習として一般的に根づいているという印象はありません。
仮装のイベントって記憶にありませんが、もともとは薄暗い室内ですので仮面効果なし!・・・かな
さて、仮面とは「役が化体」されたものです。
歌舞伎の「隈取」も、その変化形かもしれません。
ところが、近代演劇では、スッピンで演じます。
西洋演劇に由来するリアリズムの追求の結果という側面が妥当なんでしょうが、
現在能における直面(しためん)が補助線になっているという解釈はどうでしょうか。
お能では、夢幻能と現在能に大別されますが、一般的な理解で言うお能とは前者です。
主人公は死人等超人的なもの(霊・怨霊・神・架空な生き物等)であり、かならず「能面」をつけます。
しかし、後者では、能面を使用しません。
正確に言えば「仮面」として能面を使用せずに、自らの顔を能面に見立てるのです。
現在能では、主人公は生身の人間です。
例えば
・安宅の関所を突破しようとする武蔵坊弁慶(安宅)
・旅の僧(実は執権時頼)を秘蔵の鉢植の木を切り、もてなす鎌倉御家人佐野某(鉢の木)
・帝の愛人を探しに行くSPの源某(小督)
能役者は、素顔で演じているのではなく、あくまで「直面」という素顔の仮面をつけているとされます。
従って、表情をつくってはいけない!
これは奇妙な風景です、
お芝居である以上、喜怒哀楽は表情にでるもの・だすものですが、
それを表情以外で表現するのです。
見ようによっては、極めて難度の高い演技かもしれませんねえ。
演劇や演舞は仮面劇でなけれなならないという定めはなかったと思うのです。
どうしてお能は、そこまで「仮面」にこだわるのか・・・(これが超疑問なのです)
心から得心しているわけではないのですが、ある仮説があります。
それが「怨霊封じ込め論」
演じる以上は、役になりきること=入魂の演技が至高の演技ですが、
さすれば「死人を演じることは死人になること」となり、いささか不吉と
言うほかはない。
さすれば、その「不吉」を封じ込める機能を、能面に求めた・・らしい(?)
つまり「能面ファイヤーウォール論」です。
もうすこし、敷衍すれば・・・
普遍的な演劇論というわけではなく、倭国の考え方は、
他我を演じること自体慎むべきことを前提に、それがなんであれ憑依することを
防御する必要があり、その憑依のリスク度合いに応じて、
直面あるいは能面を使用する形態となった ・・・・ほんまかな(笑)
韓国にも同様に仮面劇があるのですが、使用された仮面は、終演後火中に投じられ、
残ることはない・・・
ある仮説の傍証として、有力な事実です。
つまり「穢れ」の除去
演劇の起源を「呪術性・宗教性」に求めれば、この仮説はそれらしいのですが、
人間の本性にあるらしい遊びの精神=ものまね起源も有力とされる
倭国の演劇(演舞)の初めが「アメノウズメの踊り」だとすれば、
観客たる神々が、客席で手をたたき大笑いをしながら・・・と神話に記述されてますから、
まあ「遊び」かな。
でも、天照大御神の降臨祈願ですので宗教性も高い。
さすれば、片方に断定的に論じるのは、いささか偏狭ということになります。
推論あるいは思索は、堂々巡りを繰り返し、収斂することはないのですが、
それ自体が楽しいといえば楽しい。
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