2015年4月26日日曜日
読み書きが出来ないことの「幸福」
戦前の陪審裁判の陪審員の欠格事由に「読み書きが出来ないこと」が
明記されていることは先日のブログに書いたとおりである。
当時の識字率に鑑みるにそうなんだろうとは思います。
しからば、裁判員の欠格事由にそんな失礼な事を・・・やっぱり書いてます(笑)
もっとも「義務教育未了」という書き方。
但し書きがあって、未了でも相当の学力があれば足りるらしい。
表現方法が変わっただけかもしれません。
例えば・・・「白痴痴愚魯鈍ハ任ニアラズ」って書けないが、そんなものである。
しかし、主権者の信託を得て政治を行う御仁の欠格事由にかようなものはない。
読み書きができなくとも「アホ」でも・・・そういう方々が座布団バッチを
付けている可能性は理屈上否定できません。
全ては有権者の選択に委ねられている。
ジェーン・フォンダとデ・ニーロの共演作が「アイリスへの手紙」
四半世紀くらい前のラブストーリー。
超大物が出ている割に手軽なラブストーリーだった。
結構シリアスな人間ドラマにもなるはずが・・・
フォンダが別れ際にデ・ニーロに語りかけるのです
電話じゃなくて手紙を書いてね
どってことないセリフですが、実はデ・ニーロは読み書きができない。
不幸な少年時代があったのです。
しかし、タイトルからすれば、ちゃんと勉強してラブレターを書いたのでしょう。
例えば「愛を読むひと」
ヒロインは、ユダヤ人虐殺の罪に問われる。
文盲の彼女が、アウシュビッツ送りの指令書が書けるはずもないが、
プライドでしょうか、事実を告白することなく罪に服する・・・
この演技でケイトウィンスレッドはオスカーを得ました。
実際のところ、かなり複雑な物語構成の秀作でした。
しかし、読み書きが出来ることで不幸な人生を余儀無くされたポーランド人がいた。
正確に言えば、ポーランド系のジプシーの女性。
ジプシーとは差別語らしいが・・・漂泊の民の代名詞
民族的にも多岐多様らしく、定住の意思を持たない以上、国家形成の願望はない。
大道芸としての音楽演奏、カード占い、しばしばのかっぱらいを生業とする。
空虚なネット雑学には書いていない驚愕の事実・・・ジプシーは書き言葉を持たない。
文字は化外の民の悪魔的呪文だと忌み嫌う。
しかし、詩才に恵まれた一人の少女は、文字に魅せられ・・・・
ジプシーの民の禁忌に触れてしまったため、
貧困、疎外、孤独な人生を余儀無くされるジプシー唯一無比の女性詩人の
映画が、ひっそりと岩波ホールで上映中。
入りはイマイチ。
ポーランド映画と言えば、ナチスやスタートニストの非道を言挙げし、
それに雄々しく抵抗するポーランド民族を称えるもの・・・という刷り込みがあるらしい。
映画とは資本主義の枠の中でヒトザルにとって普遍的なテーマを
ある程度商業主義的に描くことで命を長らえているって当たり前のことを
理解すべきである。
この映画は、相当に重いのですよ。
その重さを救うのが、これ以上がないモノクロ美しい静止画的映像。
「静謐」とはこの映画のためにある言葉以上でも以下でもない。
読み書きができるということは人間の尊厳のスタートラインであるはずが、
逆に尊厳を傷つけてしまう現実。
文化は差異であって優劣ではない・・・というテーゼが揺らぎそう。
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