2015年9月6日日曜日
ある新刊書を「酷評」する!
権力者にとって不都合な真実を思想あるいは感情表現として創造的に創作するものを真の文芸という。
おもねって提灯作品を書き散らかさんが如き行状は、作家の名に値しない。
どうせ、かような類は青史に名を止めることはないが、
まれに愚昧な連中から時分の花としてもてはやされるから始末に置けない。
本当の権力者とは「オトナ」なのです。
高額な賠償訴訟や広告掲載拒否に取次廃止等々な言論弾圧のような無粋な真似はしない。
適当なガス抜きとして、内心はともかくも、鷹揚に構えるものです。
正史に登場しない、古事記、万葉集。
勅撰和歌集とはいうものの、古今集の編纂の中心メンバーは、
貫之
友則
躬恒
忠岑 ・・・・いずれもが窓際貴族
文でしか生きる道のなくなった者たち
非主流派のルサンチマンを行間から読み取れないものはよっぽどの鈍感力の持ち主だと思わざるを得ない。
歌学の王道として(文学に真の姿として)悠久の本流を流れるはずが、
子規の「下手な歌詠み」の罵声の尻馬に乗って、愚劣・凡庸・低脳歌と雑言を浴びせた似非芸術家こそ、
今となっては顧みるものはまれである。
立派な全集がでてはいますが・・・売れてるとは思えない。
竹取物語にしても、門前市をなす求婚者たち。
主流派で栄耀栄華を極めていなければ、求婚も難しい。
カネにチカラを背景にしてこそのナンパ師には誠はない。
人物的に時代背景は、8世紀か?
一番の卑劣な車持の皇子・・・は、不比等に比定される。
摂関家の大幹部連がどんな顔をしてこれを読んだか知らないが、
まあ、金持ち喧嘩せずって事なんでしょう。
源氏に至っては、ここまでコケにされて(笑)
言論弾圧で焚書の憂き目を見なかったお陰で、豊穣な文藝のアラベスクを享受できている。
女三百人裏切の書
原素材は、パブリックユース。
似て食おうと焼いて食おうと勝手だが、玉もあれば、石もある。
しかし、ここまでのイシは珍しい。
読むべきではないという直感はやっぱり正しかった(苦笑)
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