2016年9月14日水曜日
権力と芸術の付き合い方
相性というか折り合いの悪さは天下一品。
男を女にする以外何でもできるって傲慢に思うのが、至高の権力。
倭国は、独裁者の系譜に「恵まれない」が、権力者とはそういうものである。
他方で芸術家・似非ではない真の芸術家は権力ごときには阿らない。
千金の名馬を葦の賤ヶ屋に養う・・・と言えば、そのようなことだ。
そこに軋轢や葛藤が生まれない方がどうかしているが、困った事に何が諍いの因子かよく分からない。
後鳥羽と定家
義満と世阿弥
秀吉と利休
巷間、異説珍説のヤマですから、凡俗には分からない世界だと
思っておく方がいい。
パトロンとは難しいのです。
芸術家はパトロンに阿らないのが正しいのだが、それを受け入れる事が出来るのは
これまた一流のパトロンということだろう。
バヴァリアの若き王は傾国の王である。
ワーグナーに入れ込みすぎて王国を滅ぼした。
彼はパトロンと言うよりタチの悪いジゴロに生き血を吸われたようなもの。
先祖の悪行は、三代目に祟るようで、バイロイトを牛耳る末裔にも、黄昏がって
話題は別の機会だ。
一流と言われる芸術家が須く世渡りが下手なわけでも無い。
生前パトロンに恵まれても、その芸術を評価するのは歴史の審判である。
時分の花
まことの花
とはよく言ったものである。
西行法師
日本の詩歌史上無視は出来まいが、指折り数えるような
レベルとも思えない。
芸術家は権力者同様に道徳から解放された存在とは言え、
あのあざとさにはヘキヘキする。
奇をてらった通名。
西方浄土に行くって言いながら、権門のあたりを歴訪し媚を売り
勧進と称するボランティアに精出し、名を売る。
肝心の歌業は言っちゃなんだが、技術がない。
婉麗幽玄な歌群の中に置けば、単調平明な歌を清涼に思うことだってある。
和歌集とは個々の歌を鑑賞する事よりも、歌群の流れを味わうことだ。
新古今和歌集に一番多く採録された最高の歌人なんて褒めることは和歌の理解に欠けるってことの自己証明である。
メインディッシュではなく、あしらいか箸休めだという事が分かっていない。
実のところ、新古今和歌集の定本とは、承久の変に敗残し配流の憂き目を見た後鳥羽が余生の全てを注ぎ込んで切り継ぎを行った
隠岐本新古今
だと思っている。
院は、百首ちかい西行の歌を全て追放した。
後鳥羽の理想とする和歌の世界には西行の居場所はなかったのです。
権力者と芸術家の形を変えた葛藤劇です。
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