2016年11月28日月曜日
百人一首を撰する
アンソロジーを作ることは、自他とも認める知性と見識の反映であり、馬骨のような素人が手を出すものではない。
小倉百人一首
選者は藤原定家・・・申し分のない和歌史上の最高峰
縁戚に当たらるらしい有力鎌倉御家人の依頼で選したものですが、なにかとそのコンテンツには毀誉褒貶が激しい
そもそも、歌手を百人選び、その歌手から一首を選ぶというプロセス。
誰を選ぶ
どれを選ぶ
加えて「歌集」なるものは、全体としてのバランスや統一したフィロソフィーも大事なんですねえ。
ということですが、天才に挑戦しようって無謀なご仁も出てくる。
足利義尚(足利将軍の一人)
文化人のようでしたが、定家の向こうを張っての「新百人一首」私撰は無謀だった。
そもそも、定家が選んだ百人以外の歌人からの百首(苦笑)
残り物にだって福はあるだろうが、それなりの歌人が大多数ですから、百は・・・しんどい(・・とかなんとかそれ以外にもあちこちに間違いも多いとか)
その後無謀なことに挑戦する向きはなくなったが、なんとか百人一首と称しての形式流用は散見される。
あえてというべきか・・・丸谷才一が「新々百人一首」を上梓した。
自らが選んだ百人(定家と重複もすればしない歌人もある)による名歌鑑賞論みたいな体裁です。
気に入った和歌の鑑賞の参考にはうってつけなもんで、実のところ拾い読みしかしてません。
さて、自称「昭和の定家」といわれる塚本邦雄さんは「新撰小倉百人一首」
歌人は定家の推薦をそのまま尊重するが、和歌は自分で選ぶ(ごく一部が定家撰と同じ・・・というかどうも和歌の選択肢がなかったようです)
定家と塚本、どっちが優れているか・・・というような対比論は多分無駄だ。
凡作揃いと言われる定家版百人一首であるが、世上に和歌を広めることの貢献度は大なるものがある。
蝸牛は、小学生の頃には、作者名はええ加減で歌意もろくにわからず、それでも全部暗記していた。
今更ながらに・・・この和歌って誰それの歌なのか?なんともつまんないねえ(・・ほかにもっといい和歌があるだろうに)って
文科省は、小学校からの英語教育に力を入れているらしいし、それを否定はしないが、
望むらくは・・・古典を英語でGAIJINに講釈できる程度(せめては説明できる程度)にはさせてほしい。
単にしゃべれますでは、お乞食さんと変わりがない。
そして、競技カルタを体育の正課にしてほしいねえ。
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