2017年2月24日金曜日
希臘三国志演義
ギリシア人の物語も第二分冊となり、ますます佳境に入る。
女史が意図したのかどうかは知りませんが、これって「三国志演義」ですよねえ。
彼女って歴史家でなく、著述家ですから、この作品も三国志でなく三国志演義というほうが正確である。
だっから、タイトルもギリシア人の「歴史」ではなく「物語」なのですよ
アテナイとスパルタとペルシア帝国の三つ巴の戦争と平和の物語。
民主政治の発展だとかそれに裏打ちされた哲学や文芸の繚乱なんかよりもそっちのほうが面白いに決まっています。
平和といってもたまたま血が流れないだけで安逸のほほん・・・ではない。
それは平和とは言わず「平和ボケ」という。
古来より「治にて乱を忘れず」というでしょう。
歴史上のセオリーとして三つ巴の争いは、すべてが敗者になり、漁夫の利をせしめる者が登場する。
それがマケドニア。
もっともそのお話は第三分冊に描かれるようだ。
政治というアートの中で民主政治こそが最良なのかどうかはなんとも言い難いって気にさせるところが
かの女史が危険な著述家である所以である。
たまたま国情に一番適合した政体を選んだらそうなっただけでしょう・・・って、
身もふたもない(苦笑)
ペルシアがペルシアらしく、スパルタがスパルタらしく、アテナイがアテナイらしくあるために、
それぞれが、帝政、僭主政、民主政を選んだらそれなりに上手くいった・・・違いますねえ、上手く行くためにはって
知恵を絞った結果なんです。
いずれの政体においても優れた(あるいはそれなりの)指導者がいたことには変わりはない。
ヒトザルの歴史において未だに原始共産制がそうであったであろうような「リーダーのいない平和平等な社会」を
生み出してはいないのである。
優れたリーダーがいた時代は政体がいかなるものであれ、ヒトザルにとって最高に幸せな時代なのです。
五賢帝の時代も乾隆帝の時代も、リベラルにとっては不都合でしょうが民主政治の時代ではなかったのです。
逆に、有能な指導者のいない民主政ほど手に負えない厄介なものはない。
一般に「衆愚政」というが、要するに民主政とかコインの裏表に過ぎないし、
マーフィーの法則よろしく裏面が出ることのほうが多い。
優れた統治システムを考え出すのは、大衆ではなく名門エリートである!ってこれまた物議をかましますねえ。
こんなことはレーニンの革命論にだって登場する「不都合な真実」なんですよ。
民主政治の危機とは、主権者の堕落ではない。
そもそも大衆とはその本質においてしばしばパブリックセンシティブに流される「衆愚」なのです。
絶えず優れた指導者を生み出す、愚昧なリーダーを巧妙に排除できるようなシステムでさえあればなんでもいい・・・・とまでは
彼女は暴言を吐きませんが、内心はそういうことだと思いますよ。
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