2017年3月13日月曜日
教育勅語を論ずるよりも
教育勅語は、総理大臣と文部大臣の副署のある御名御璽印が権威を担保します。
法的な性格は勅令と同等である(時期は旧憲法発布の頃ですから、イデオロギー的・政治的にはリンクしていると考えるべきと思います)
かかるが故に、戦後両院においても排除あるいは失効確認が行われ、その後の教育基本法制定につながる。
言い換えれば、教育勅語とは旧憲法に直接由来する旧教育基本法の「一部」である。
例のごとくに狂言綺語を弄べば....(笑)
何故学ぶのか?
何を学ぶのか?
は表裏一体とは言え別物である。
教育勅語はどちらかと言えば後者であり、前者の意味合いは希薄だし、
あると言われても空虚な観念性の高い言辞の羅列に過ぎず
その部分は現行法体系からしても「排除あるいは失効確認」がなされる事が
当然な部分である。
しからば、前者は旧教育基本法なるもので言えば何処にあるのか?
実は有るのですよ。
それも蝸牛庵が絶賛してやまない形で・・・・
http://ueda8823khj.blogspot.jp/2014/11/blog-post_22.html
学事奨励の太政官告示は、明治四年だか五年に告示されています。
時期的に考えても、或いは体制の大きな変革の際には「教育の再設計」が必ずなされるという観点からしても
当時の明治政府のいじらしい様な切実な気持ちが伝わります。
委細はリンク文書を見てください・・・でも今回限りですが、布告全文部分のみカトペします。
親切なことに超要点説明付き(笑)
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人々自ラ其身ヲ立テ 其産ヲ治メ 其業ヲ昌ニシテ
以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ他ナシ、
身ヲ脩メ 智ヲ開キ 才藝ヲ長スルニヨルナリ。
而テ其身ヲ脩メ 智ヲ開キ 才藝ヲ長スルハ 學ニアラサレハ能ハス。
是レ 學校ノ設アル所以ニシテ 日用常行言語書算ヲ初メ 士官農商百工
技藝及ヒ法律、政治、天文、醫療等ニ至ル迄 凡人ノ營ムトコロノ事
學アラサルハナシ。
人能ク其才ノアル所ニ應シ 勉勵シテ之ニ從事シ
而シテ後初テ 生ヲ治メ 産ヲ興シ 業ヲ昌ニスルヲ得ヘシ。
サレハ 學問ハ身ヲ立ルノ財本共云ヘキ者ニシテ 人タルモノ誰カ學ハスシテ可ナランヤ
夫ノ道路ニ迷ヒ 飢餓ニ陷リ 家ヲ破リ 身ヲ喪ノ徒ノ如キハ
畢竟不學ヨリシテカヽル過チヲ生スルナリ
まず「学ぶ」ことにより、倫理・論理・知性が身につき、
それで初めて人生が全うできる・・・と大上段に振りかぶる。
逆に「不学」であれば、悲惨な人生を送ることとなる・・と脅かしもする。
從來學校ノ設アリテヨリ 年ヲ歴ルコト久シト雖トモ
或ハ其道ヲ得サルヨリシテ 人其方向ヲ誤リ 學問ハ士人以上ノ事トシ
農工商及ヒ婦女子ニ至ツテハ 之ヲ度外ニヲキ 學問ノ何物タルヲ辨セス
又士人以上ノ稀ニ學フ者モ動モスレハ 國家ノ爲ニスト唱ヘ
身ヲ立ルノ基タルヲ知ラスシテ 或ハ詞章記誦ノ末ニ趨リ
空理虚談ノ途ニ陷リ 其論高尚ニ似タリト雖トモ 之ヲ身ニ行ヒ
事ニ施スコト能ハサルモノ少カラス。
是即チ沿襲ノ習弊ニシテ 文明普ネカラス才藝ノ長セスシテ 貧乏破産喪家ノ徒多キ所以ナリ。
是故ニ 人タルモノハ 學ハスンハ有ヘカラス。
之ヲ學フニハ 宜シク其旨ヲ誤ルヘカラス
学ぶということは上流階級だけに必要だとか、学ぶ目的を正しく理解しないから
空理虚談に弄ぶようにもなる。
之ニ依テ今般文部省ニ於テ 學制ヲ定メ 追々敎則ヲモ改正シ 布告ニ及フヘキニツキ
自今以後一般ノ人民 華士族卒農工商及婦女子
必ス邑ニ不學ノ戸ナク
家ニ不學ノ人ナカラシメン事ヲ期ス
人ノ父兄タル者 宜シク此意ヲ體認シ 其愛育ノ情ヲ厚クシ 其子弟ヲシテ
必ス學ニ從事セシメサルヘカラサルモノナリ。
村に不学の家なく
家に不学の人なし・・・という名句の出典はここにある。
高上ノ學ニ至テハ 其人ノ材能ニ任カスト雖トモ
幼童ノ子弟ハ男女ノ別ナク小學ニ從事セシメサルモノハ其父兄ノ越度タルヘキ事
但從來沿襲ノ弊學問ハ士人以上ノ事トシ 國家ノ爲ニスト唱フルヲ以テ
學費及其衣食ノ用ニ至ル迄 多ク官ニ依頼シ之ヲ給スルニ非サレハ
學ハサル事ト思ヒ 一生ヲ自棄スルモノ少カラス
是皆惑ヘルノ甚シキモノナリ。
自今以後此等ノ弊ヲ改メ 一般ノ人民他事ヲ抛チ 自ラ奮テ 必ス學ニ從事セシムヘキ樣
心得ヘキ事右之通被仰出候
條地方官ニ於テ 邊隅小民ニ至ル迄 不洩樣便宜解譯ヲ加ヘ 精細申諭文部省規則ニ隨ヒ
學問普及致候樣方法ヲ設可施行事
もっとも財政逼迫な大日本国のこと
無償教育なんか期待するな!
自分への投資は自己負担と釘を差すことも忘れない(笑)
ーーー
具体的で即物的な文章であるが対句等漢文的なレトリックを散りばめ、
論理的にも修辞的にも素晴らしい。
で、この法令は何処に行った?
戦前の法令(含む勅令)であっても改廃されない限り有効である。
逆に言えば、廃止決議のある教育勅語は法的に無効な存在である。
私人としての思想信条において拝めるのは勝手だが、
公人が公式の場で賞賛したり意義を強調すべきものではない。
現行の教育基本法にも違背するという意見がある様だが、少なくとも学校教育法に定める教育機関で教えるのは困る。
やりたければ、朝鮮人学校の将軍様バンザイ同様に自腹でやればいいし、公的扶助なんてとんでもない。
学事奨励の布告が廃止されたとは聞いていないが、
現在の教育基本法の前文と総則部分には、この両者の意義が記載されていますので
吸収されちゃったというのが解釈なのかしら?
しかしながら、教育基本法で美辞麗句をここまで並べ立てると無意味に思えてくるし(実際に教育現場はそれらしくはない)
明確に改廃したとは聞き及んでいませんし、確認も出来ません。
従って、蝸牛庵的解釈は「未だに生きてる」
そして、上位法と思しき法令に照らしても矛盾するところはない・・・・とかなんとかの理屈があって、
過去のブログ(個人的にはネットエッセイですが)がある。
ヒトザルは何故学ぶのかって・・・・何故学ぶのかが正しく理解できれば「何を」についても迷うことはないと
思うのですよ。
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