2017年11月15日水曜日
マドレーヌを浸した紅茶の味
歴史なるものが始まって以来「世紀末」は何十回もあったが、
頭に浮かぶのは西洋の19世紀末。
フランス語だと、ファンドシエクル
皮膚感覚で感じ得ないのが残念だが、何やら思潮の退廃感が....
同時代的に20世紀末を体験したはずだが、何も想うものがない(^^)
あれから三十年近く経ち未だにあの世紀末を鳥瞰的に体系化した書物が何もないところをみれば、
誰しも何もないのです。
プルースト的に言えば、失われた記憶はなにか具体的な物質を媒介に
向こうからやって来るものらしい。
例えば、紅茶に浸したマドレーヌの懐かしい味とか....
けだし、彼の「失われた記憶」とは、あの世紀末の残照のことのようです。
角田光代さんの超訳なる「失われた時を求めて」には、
スワンの恋の部分はバッサリとオミットされてます。
この章は失われた記憶の更に前の記憶だから異質だということですし、
独立して取り扱うことが可能と言う理由もあります。
なかなか興味深いエピソードであり、シューレンドルフの秀作があるのですが、
世間は目あきばかりでなく、スクリーンにかかることはない。
ある種単純な物語でブルジョアジーのスワン氏が、高級娼婦のオデット嬢に
狂おしいまでの焦燥感満載の恋をするはなし。
こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身も焦がれつつ(定家)
遊びごとには寛容なおフランスでも、正式に結婚までとなれば
あの時代はやはり不味い。
しかし、暗喩的なネーミングです。
スワン(白鳥)
オデット
なんて言えば、あの有名なバレー曲を連想しない方が
どうかしています。
マドレーヌスワン嬢
これもやはりメタファーです。
プルーストを連想すれば、いまんところJBが最後に愛した必然性も
あるというだし、失われた幼い日の記憶探しも見え隠れします。
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