2018年1月15日月曜日

王道と覇道(ギリシア人の物語異聞)





まるで「北斗の拳」みたいな世界である。
古典的な政治哲学の命題であるが、
あまりよろしくない。


孟子の概説が一番なじみやすいが、
統治者を「王者」と「覇者」に、政道を「王道」と「覇道」とに弁別し、前者が後者よりも優れていると断ずる。
覇者は武力によって借り物の仁政を行う者であり、王者は、徳によって本当の仁政を行う者である。
まあ綺麗ごと。
あまつさえ後世西洋は「覇道」東洋は「王道」というに至っては、笑止千万
クラシックギリシアの「哲人政治」思想って知らないのかしら?
どっちにせよ、歴史上「王道政治」があったかどうかは疑わしい。
あってほしいと言うこととは別物である。


権力は所詮暴力装置。
剥き出しかオブラートに包む程度の差しかないが、
実はこの差は大きい。


馬上天下を取るも治むべからず


史記の何の誰かしら列伝にある言葉
劉邦のスタッフだとおもうが名前を失念。
大事なのはスタッフの名前でなく、その考え方なり
其れを受け入れた統治者の感度。


権力闘争は総合格闘技だという事です。
なんて事はさておき、西洋的統治者と東洋的統治者の違い、
正確には描き方の違いをまざまざと感じいるのです。

ギリシア人の物語(ローマ人の物語もしかりですが)では世界史に刻まれる
英雄的な統治者が数多登場しますが、その補佐役の姿が見えない。
何もかもを一人でやったはずがないが、その点に関しては
補佐役(参謀、軍師、スタッフ)の活躍が織りなす東洋史との差が大きい。
いわゆる「匿名の情熱」ということに忠実であれば、
そういう描き方が必然かも知れません。

俺が俺がとしゃしゃりでる自己顕示欲の塊みたいな連中が、
国を滅ぼした例を知っているだけに、ここんところにプチ感動(^^)





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