...群衆の前で手を洗って言った。
「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」
すると、民衆全体が答えて言った。
「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」
そこで、ピラトは....
本福音書の山場であるキリスト裁判。
検事の起訴状がありませんから、罪状はよく分かりませんが、
反体制派思想犯だとされたようです。
あの懐かしい全共闘の議長みたいなものでしょう。
パゾリーニの「奇跡の丘」の解釈はしかり
所詮はイエス一派はマイノリティですが、ローマ属州の悲しさ。
司法権は総督の手にある。
ピラトの出自は、有産ローマ市民ですから、ユダヤ人ではない。
ユダヤ人内部の内ゲバに関与したくはないし、
有罪とは思ってもいなかった...ように書いてます。
このピラトの態度は許されない。
裁判官が「黒白つけ難い・つけたくないから判決を出さない」と言わんがばかり。
訴の利益がない、原告適格がない、管轄違い...
まあ、逃げ口上は色々用意されていますが、早い話が
私刑に委ねるというか職務放棄を行なったのです。
しかし、この記述は歴史的な事実なのかなあ?
だとすれば...いやそう後世のヒトザル達がそう信じたからこそ
神の子殺しの民族だと長く(今でも)迫害をされてきたし、
迫害する側の錦の御旗でもある。
迫害の累積値からすれば、イスラム難民や植民地被害の比ではない。
作者は本当にマルコかどうかは知りません。
誰でもいいのですが、ローマ人を免罪したが故に、
これが正典とされたことは確か。
禁教から外れて国教化の果実を得るためには、なんでもありって
考えるのは罪かなあ。
宗教が清廉無垢である事は知っていますが、
そうでない黒歴史があった事も知っています。
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