2019年9月15日日曜日
背教者睦仁
倭人の多くは「無神論者」である。
誤解があると困るので、絶対神を信じないことを無神論という事にします。
従って、倭人の多くはさまざまな守護神を適宜...効能と慣習で
使い分ける有神論者です。
初詣は神社
結婚式は耶蘇
葬式は仏教
そうは言うものの、一番身近が仏教。
神棚や十字架はなくとも仏壇や墓所もある。
思えば、末法とは明治の初めにさかのぼる。
革命政権にありがちな狂信的暴走なんですが、神仏分離、廃仏毀釈
あまつさえ、ミカドは仏教を捨て神道へ
それまでは、京都の泉涌寺が菩提寺でした。
天智天皇以来のミカドの位牌が...(一部がないのよね)
蘇我物部の宗教戦争以来千年にも及ぶ信仰をアッサリと
捨てたのですよ。
なんとも驚天動地な出来事。
だから、明治大帝ではなく背教者睦仁と呼ぶべきだが、仏教界の鈍感さ
やっぱり田布施の陰謀かも...
明治五年四月二十五日の太政官布告第一三三号
自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事
但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事
今より僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事、
但し法要の他は人民一般の服を着用しても苦しからず
よく読めば、ネバナラナイではなくてシテモカマワナイなんですが、
皇室からも見捨てられ...僧侶は雪崩をうって戒律破りに走った。
そもそも国家が布告するような内容ではないのですが、
しかし、この時点で、仏教の堕落は極まれり
僧侶とは修行に裏打ちされた身分から単なる職業になりさがった。
その数三十数万人。
お寺の数は8万くらいですが、無住寺が二割くらいあります。
僧侶もカスミ食って生きる訳にはいかないから
観光
葬祭
営利事業...やなんかで糊口を凌ぐ。
しかし、文化財が無ければ観光客は寄り付かない。
無理矢理に縁起をでっち上げた寺も結構ある。
営利事業と言っても経営能力に乏しいから名義貸し
大規模霊園なんかは石材店が実質的に運営している。
やはり昔からの葬祭ビジネスが一番確実。
我が寒村にも地域住民の菩提寺がある。
墓終い(離壇)をしてもいいが、ことさら波風を立てる事もない。
まともな宗教はどこも偶像崇拝を禁じる
でも、マリア像やらなんとか如来とかどこもかしこも偶像まみれ
恭しく喜捨をし、叩頭くが...勘違いをしてはならない。
目の前の偶像を拝しているのでなく、その像は単なる窓
そのまどを通じてその先に拝するものがある。
墓石や位牌もまた然り。
陋屋の仏壇は、毎日香華を絶やさず、
朝晩在家私度僧(アタシのこと)が正座して読経。
密厳浄土に在わすであろうご先祖は、生臭坊主よりも
あるかに有り難いと思うだろうよ。
因みに、阿弥陀如来がおわしますのが極楽浄土
アタシは大日如来が持仏ですから、住む場所が違います。
思えば、ルターの宗教改革とは、信仰よりも金儲けが大事なのか!
という素朴な問いかけ。
神と信者の間には余計なものはいらないとも主張した。
原始仏教は、元来仏性が備わっていれば、苛烈な修行をしなくとも
悟りの道を一人で歩いて行けるというもの。
または一人で歩いていくもの
悟りの境地に至ることは難しいが、近付こうとする不断の行いが、
尊いのです。
その行いのお手伝いはしてあげるのが原始仏教
悟り...つまり、最高な理想的人格者になること。
無論ですが、何もしないと生涯ゲスでしかない
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