2019年10月17日木曜日
クラシック音楽映画の不毛の大地に(2)
不毛の大地なのは当たり前で、
本家は江戸歌舞伎全盛期の頃から豊穣な果実があまた...
しかし、昨今は毎年音大から千人もの専門教育を受けた若者が
巣立っていきのだが、一体彼奴らはなにをやっているんだ
というよりも、師匠は何を教えてきたんだ?
音楽教育の目指すところは私見ながら単純で、
完璧性の追求
演奏家であれば、作曲家の意図なり思いを具象化した
記譜号を正確に読み取り、厳格に音を再現すること。
記譜号からの逸脱なんて論外である。
蜜蜂と遠雷では、ジュリアード王子(マサル)が
それを徹底的に叩き込まれているが、彼は多少の冒険をしたくてたまらない。
その度に厳しく咎められる。
一方で神童養蜂家(風間塵)はベートーベンをロマン派的に
弾き、審査員からダメ出しされるが意に介さない。
二人の狭間で揺れるのが、ドタキャン天才少女(榮伝亜夜)
物語的には、始めてピアノの前に座った頃は天衣無縫的に
弾いていたようだが、脚光を浴び専門的なトレーニングを受けるにつれ
正確無比ながら保守的な演奏に転じていく。
揺れるという事は悩むということ
その脱皮の過程が物語の主題。
したがってコンクールの結果は見なくとも分かっている。
映像表現としては、最終審査結果発表はありません。
エンディングに字幕がでるだけ。
順位は予定調和的に...
ジュリアード王子
ドタキャン天才少女
神童養蜂家
しかし、いつか時代が神童養蜂家に追いついて来るかもしれない
って事がいいだけ。
どの世界もそうですが、音楽界にも「守破離」はあるのですよ。
しかし、三百年近く前の楽譜を何時迄も「再現」するだけが、
藝術なのかねえ。
不肖アタシは、毎度の舞台で、世阿弥師の手になる
謡本を前に本邦初公開の作詞作曲をやってます。
終われば師匠の前にしおらしく正座して
いやあ..焦って動転しました。
申し訳ありません
しかし、内心は、
詞章はアタシの方が流麗だし、
この部分は半音下げる方が謡やすい...とかなんとか
傲慢不遜とはこのこと
記譜号の自由解釈とはいえ、音階と歌詞の改変は冒涜です。
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