Why did you want to climb Mount Everest?
Because it's there.
高名な英国人登山家とのやりとり
さまざまな解釈が可能だが、未知の世界の征服欲と
考えるのが妥当だと思います。
西洋人であっても、キリスト教の刷り込み以前であれば、
多分そうは言わなかった筈。
程度の差はあるが、自然信仰(山岳信仰)は万国共通
特に倭国は何処でも山が見えます。
幽山深谷こそが終の住処。
言わば、征服されに山に入るのです。
日本仏教では、発心して山を目指し...
幻滅してあるいはさらに発心して山を去る。
叡山に顕著な例だが、仏教史に名を留める名僧は、
山を去った方々だ。
言ってみれば、天台とは学問の教養過程みたいなものだ。
リベラルアーツは身につくが、それ以上でも以下でもない(..のかも?)
思えば不思議なのだが、釈迦は出家者に生産活動を禁じた。
生きる術は托鉢だけ。
最初の釈迦のお弟子は五人
2組に分けて、最初の班に説教の間、後の班は托鉢にまわり、
帰ったら、最初の班が托鉢に行く。
山奥の学校の二部授業みたいなもの。
従い、深山幽谷にお寺(教場)があったはずがなく、
托鉢に便利な都会近郊でないと、悟る前に餓死しかねない。
マゾヒステリックな苦行でなく、瞑想であればアーバンライフでも充分。
都会の雑踏や誘惑が修行の妨げ..なんて考えているうちは
悟りのゴールは遥か彼方なのです。
アタシのような在家私度僧が寒村陋屋と都会のマンションを行き来するには
理由があるってこと。
悪魔の甘い誘惑に抗じる瞑想こそが、悟りの王道
まあ、嘘も方便とは便利なロジックだ。
理屈と膏薬はどこにでもつく(^.^)
0 件のコメント:
コメントを投稿