2015年12月20日日曜日
現実の悪意の法理
広報と報道とは基本的に違う。
いずれにおいても「嘘」をついてはならないが、都合の良い真実を流布させることと
不都合な真実を広宣すること程度の違い(相当な違いですが・・)はあるのです。
公人にとっては(私人だってそうですが)、不都合なことを隠蔽するためには様々な策を弄するのですが、
一番手っ取り早いのが「高額賠償請求訴訟」
もっぱら脅迫的意味合いでの「高額賠償」は、民事の世界では信義則違反だと思うのですが、
一方で、名誉毀損だとか侮辱だといって刑事告発する方法もある。
私人ならばともかく、公人ともなれば「晒しものされてナンボ」って思うくらいの気概がないと
本来その立場にあってはならない。
批判されて当たり前。評価は棺桶の蓋を覆い、朽ち果てた頃に定まる・・・
情熱・責任感・判断力というような権力感情は、政治家にかぎらず公人としての基本的な資質である。
が・・・あえてそういう論考があるということは、その名に値しない「公人」が多く、
不都合な真実を圧殺しようとすることへの警鐘だと思います。
法律の専門家とは面白いこと(圧殺への対抗手段)を考えだすのです。
60年台の合衆国最高裁判所の判決
健全なデモクラシーを担保するためには「自由の言論」を守ることであり、
公人にとっての人権(名誉権だとか・・)を過度に振りかざすことに一定の制限を与えることに
合理性があるという考え方である。
報道といっても無謬ではありえないことを前提に、そうであっても「自由な言論」を窒息させるべきではないって考え方は
そのような報道人を持ち得た国家においては、ダイヤモンドのような輝きを感じる。
具体的に言えば、「被害者」が被害を立証し、勝訴するためには・・・
・報道サイドが嘘と知りつつ公表した
・報道サイドが嘘かどうかも考えずに発表した
ことを原告サイドが立証しなければならないと断じたのです。
女性大統領の動静話をめぐる裁判が、報道サイドの勝訴となりましたが、
一部の法律家が言うように、この「現実的悪意の法理」をよるものでしょうかねえ?
判決要旨の要約版によれば・・・
・公人の動静に関する記事である。
・公務か私事かを峻別することは公人(大統領ともなれば)にとっては難しい
・公人を誹謗する意図はない
・言論の自由として保護される範囲程度の内容である。
・記事は虚偽である
街角の「噂話」を裏とりをせずに伝聞的に報じただけであって、
当然ながら公人を専ら誹謗中傷する意図はなく、
それに過剰反応しただけのお馬鹿裁判としか思えず、
先進的な法理を展開したとはまったく思えないのですよ(笑)
裁判の初期の段階で、裁判所は「虚偽」と断じてしまった。
これは、事実審理究明の放棄であり、なんだかそうする必要があったのでしょうねえ
本当にそうだったのか、究明することが憚られるのかはわかりません。
虚偽の報道ですから、むしろ「有罪」のほうがすっきりする
不都合な真実ではないとなれば・・・
報道の意図性(悪質性)とか加罰性の有無だとかという技術論だけが残る。
そんなものは、原告が悪意が有りましたと陳述するわけがなく、
裁判官のさじ加減(国家意志も含めて)でなんとでもなる。
要するに「密会の事実の究明」という局面に展開することが不都合であり
早々にフタをして、あとは作為的に作文をすればいいっていう裁判ショーだっということです。
政治や外交が「訴外乱闘」をやりまして・・・って、舞台裏まで打ち明けたってお笑い草
報道が虚偽であり、本来は微罪とはいえ有罪なんだか、外交ルートで媚を売ってきたので
無罪にしてやったんだから、わかってるよねって・・・・
判決文の裏側をあぶり出すとそう書いているに違いない。
まあ、検察が控訴を断念するまでは「不都合な真実」を暴露して相手のメンツを潰しても
得にはならないから、適当に「評価」しておくのが、オトナの対応です。
被告の立場としては「当然の判決」っていうのが当然でしょうが、
外野は「予想外に評価できる先端法理を駆使した斬新な判決」であるって
持ち上げておけばいいのですよ。
冒頭の「一部の法律家」って、結構知恵者ですかな(笑)
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