2016年3月25日金曜日
澤の蛍もわが身よりあくがれいづる魂
彼の四十年足らずの人生が残したものは、醜聞と呪われた絵画群
ルネサンスを超えた男とアッピールしても倭国では認知度は少ない。
西洋ですら、再評価されたのは20世紀のことで三世紀にわたり忘れ去られていた。
80年代に英国の異端の映像作家がタイトルロールとしたが、
どの程度反響があったか記憶にない。
でも、極私傾向主義鑑賞家はちゃんと劇場で見てます。
その後この監督作品は何本か見てますから、最初から歯牙にもかけないっていう画家でも無かったのだろう。
しかし、なにも覚えていないし、今回の展覧会を耳にしなければ・・・
400年ぶりに発見された「マリア マグダラ イン エクスタシー」の世界初公開って触れ込みでもなければ
思い出す事も無かったはずだ。
エスクタシーなんていうと、いかがわしい危険ドラッグを想起させるが、ある種の宗教的快感を意味する。
それに「法悦」なんて倭語をあてると・・・・なんか素晴らしそうな気がするではないか。
不信心な天邪鬼でもその境地に達する事ができるのだろうか?
性的快感なんか及びもつかない・・・とかなんとか、セールストークかもしれませんがね(笑)
今回の展覧会では、彼の真作が10点あまり。現存している作品が数十点と言われ、
教会なんかに固定され移動不可能な作品がそこそこありますので、空前の規模ってあながち大げさでもない。
加えて、彼の画風の後継者の作品とを対比しながら50点あまりを鑑賞するというしつらえ。
有名どころの「バッカス」とか「果物籠を持つ少年」はどうでもいい。
なんちゃって「法悦のマグダラのマリア」である。
のけぞるような姿勢
胸元の白い肌
半開きの唇
陶酔の瞳からの流れる涙
なんだか官能小説を書いているみたい(笑)
合わせて、悔悛するマグダラのマリアが二作。
後継者の作品ですが、これまたそそるのです。
彼女は娼婦であり、信仰を得て以降イエスの妻とされますが、
娼婦の時代を悔いて、わが身を鞭打つという業をする。
当然半裸ですよねえ・・・
宗教の時代とは言え、ヌード絵画の需要はあったのですよ。
信仰のトッピングを絡ませればなんでもありなのだ。
半世紀ばかり前、ちょっと気取った舞台女優もどき女学生を転ばすのは訳なかった。
シェイクスピアやチェーホフ、イプセンじゃダメです。
そんなの好きっていう子はガードが固い。
なんちゃって、サルトルの「恭しき娼婦」
その潜みに習えば、マグダラのマリアを演じてほしいと言われて断る女優はいない。
声をかける製作者も、それなりに選んでいるはず・・・
メルギブソンが監督の「パッション」では、モニカベルッチが演じた。
良かったですよ。そりゃ世紀の美女が演じたのですから・・・
製作進行中の作品では、マリアそのものがタイトルロールだそうで
ヒロインの本命は、ハリウッド最強最大のセレブ女優であるルーニーマーラだそうです。
あまり肉感的じゃないがねえ
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