2017年1月13日金曜日
武道の明日
某情報誌掲載の「誤審」のエッセイは実に面白い。
個人的には、ビデオ判定には懐疑的であり、導入するならNFL方式・・・つまり戦術的駆け引き道具でしかないと考えている。
所詮、判定とは神の領域に近い。
間違いも含めて、それが競うってことだしその結果が理不尽であっても神の気まぐれだというでしょう。
競技に限らず、世の中全般が太古の昔から理不尽なものと決まっている。
だから、司馬遷は「天道、是か非か」と悲痛にかつ諦観を込めて言い切ったのですよ。
といいつつも、スポーツがエリートの趣味から巨大ビジネスにかわってしまった以上
判定結果に多額の金員が絡むようになった。
そう諦観ばかりもしていられないのが世間の流れ
未だに孤高の立場を貫くのは・・・・剣道くらいでしょうかねえ。
逆に言えば銭金に淡白(無縁)なマイナースポーツということです。
しかし、柔道もそうであったように国際化を志向するのであればそんなストイックな事を言っている暇はない。
剣道の判定には全く詳しくないが受け売りをすれば「残心」とやらを重要視するような・・・
単に一本入ればいいってもんじゃなくて、よしやった!なんてガッツポーズをやると取り消されるとか・・・
まるで旧態然とした高校野球ですねえ😋
もう少し実際的に言えば「七人の侍」の名場面に由来するが、実は柳生十兵衛のエピソードらしい。
旅の武芸者と木刀で立ち会う久蔵(宮口精二さん)
見た目相打ちで終わるのですが、久蔵は「拙者の勝ちだ」
相手は憤然として真剣の立会いを望む。
見物している勘兵衛(志村喬さん)・・・・・「勝負は見えている」
要するに、真剣であれば相手を切り殺したか、切り殺せたかという事が一本の判定判断らしい。
例えとして非常にわかりやすい。
防具をつけた竹刀での鍛錬とは、真剣勝負の擬制である以上当り前と言えば当たり前
しかし、人切庖丁をもったこともない、あるいは唐竹や麦藁を切った事があるかどうかも定かでない者がわかるものなのか?
ささやかな経験からすれば、碁盤の角にすえた二尺の太竹や麦藁を斬るのは大変なことだ。
太刀さばきが華麗だから、構えが凄そうだから斬れるってものじゃない。
この世界の業界人がすべからく勘兵衛さんほどの眼力を持ってとは思えないし、
それは審判という立場でも誤差はあるまい
これ以上は奥の深い話ですので、単にど素人の剣術マニアの立ち入る世界ではない。
言えることは、かの半島国は、剣道が盛んで、荒唐無稽にも起源説まで唱えていますので
国際化のヘゲモニーを取られそうってことが確かと言うことは確実に言えます。
別にどうでもいいと言えばいいのですが、武道の道を棄てスポーツの道を選択するのであれば、少しは考え直す方がいい。
早晩、フェンシングのように、電子竹刀と電子判定機導入の世界になるのか・・・・
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