2017年4月22日土曜日
虚妄の「言葉」遊び
今日のお題・・・今時の公式な歴史的学術用語であるべきではないと思うのが
乱
変
間違った・或いは意図性のある歴史観の刷り込みが行われることがあり、
どうしても使いたいのならば相当注意して使う必要があるが使わないに越したことはない。
1)萩の乱、佐賀の乱、西南の役(戦争)
通常「乱」は、権力に対して叛旗を翻し不首尾に終わった場合で、「変」は成功した場合。
前提として当事者間に支配従属関係があります。
西南戦争も規模感からすればそうだねって反面、前原一誠、江藤新平が乱臣賊子だと歴史上決めつけられて可哀想。
その後官位を遺贈されてますから、◯◯事件でいいと思うのです。
西郷さんだから、昔の仲間が惻隠の情を示したってありあり。
2)本能寺の変、禁門の変
これはダブルスタンダードです。
信長は討ち取られ、光秀圧勝だからいいとしても、
はるばると押し寄せた長州軍は会津薩摩等の連合軍の前に敗残。
その後朝敵とされた以上、臣下がミカドに弓引いた訳で正しくは禁門の乱です。
その後明治維新を成功させた立役者を賊軍扱いをしちゃいかんなあ・・・忖度ということですよ。
知る限り「禁門の乱あるいは蛤御門の乱」と記述した文献は見たことがない。
しかし、瑣末な定義よりも「何故乱か変か」って興味なり疑問をもってもらえるのならば、
そっちの方がはるかに有意差がある。
実はこれまではマクラみたいなもので、二大大国の歴史認識の件が本題
委細は詳らかにしないが、歴史に詳しくなさそうな不動産屋大統領に向かって「朝鮮半島は歴史上中国の一部」と
なんちゃら主席が講釈を垂れたらしい・・・・あくまで「らしい」という事。
意味合いを正確に理解するには難しい表現ですが、現下の政治情勢に踏まえての発言だという事は犬畜生でもわかる。
そんなことはさておき・・・
まずこれは半島全体を対象としていますし、ことさら17度線以北だけって、長い歴史から見れば
意味のない区分です(そういう記事を書くメディアの知的水準が知れる)
漢代には楽浪郡等が置かれ、直接の支配下だった。
その後は、曲がりなりにも朝鮮民族系国家がありましたから「一部」と言われれば、オブジェクションというのは当然。
しかし、冊封体制に組み込まれている事で精神的支配を受けていることをもって「一部」だとすれば
日清戦争で清国が敗退するまではけだしその通りって、山川日本史ですら書いてます。
むしろこの支配方法こそが中国的支配の要諦。
翻って倭国ですが、天皇制国家以前は、漢奴国王とか親魏倭王ってことで冊封体制に組み込まれようと
意図した事はあったようですが、それ限り。
義満が、日本国王の称号を有り難く頂戴してますが、これは貿易の利益目的。
中国サイドからすれば、権威がおよぶ余地のない化外の民という事ですが、そう思うのは勝手ということで、
言って見ればある種の天動説です。
文禄の役(壬辰倭乱)
慶長の役(丁酉倭乱)
16世紀における大規模戦争ですが、世界史的に意味のある戦争でもない。
発端がよくわからないし、どっちが勝ったのかも同様。
出兵の意図が達成できなかった以上、勝ったのは朝鮮(と冊封体制上の支配者である明国)という言い方を否定するのは難しい。
カッコ内は朝鮮サイドの命名。
いずれも元号なりを名称としますが、問題は下の句です。
この「乱」という言葉の使い方からして、歴史認識をとやかく言われる筋合いはないって思ってしまいます。
夜郎自大ってこういうことを言うのです。
倭国が、新羅なり高麗なりに従属支配された歴史はあろうはずがない。
こじつければ、天皇家は朝鮮は任那を本貫とする一族であり、大和朝廷と任那国は同族。
任那が新羅に滅ぼされた以降も、任那再建に向けて度々出兵しようとした史実は、そう考えれば得心も行く。
任那の分家筋なんだから、本家を叩き潰した高麗なり新羅が上・・・ってこれまた牽強付会(笑)
イギリスが負けたらアメリカンも負けたことになる・・・はずがない。
高麗なりに新羅の末裔の倭国憎しは、その時代まで遡るようですので、日帝36支配なんか単なる歴史一コマなのですよ。
中国の圧力の中で虐げられていた我々と違って、島国で独立独歩自己意思で生き抜く倭国。
千年に渡る恨みって、まあそういうことで鬱陶しいことだ。
任那国は、いまの全羅道で、何かと迫害を受けてきたとされますが、根っこは八つ当たり。
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