2017年11月17日金曜日
ポイントは3つあります(2)
聖徳太子の事績とされる事柄については、論点が二つある。
その事績が本当にあったか?
その事績は聖徳太子によるものか?
まず問題となる「事績」ですが、
遣隋使
冠位十二階
17条の憲法
三経義疏
最後の仏教典の注釈書については興味も知見もないのでパス。
遣隋使がなかったという説は聞いたことがない。
しかし、回数については両国間の文献に違いがある。
どちらの史書も、都合の悪い事は書かない、つまらないと思えば書かないのが
鉄則ですので、冷静に見れば日本書紀の記述はいささか危うい。
冠位十二階も実際に施行されたようです。
が、大化改新以降に廃止されましたし、施行による効能はよく分かりません。
氏より人で評価するシステムは確かに画期的だが、
実力主義を標榜する人事システムの実際ってありますからねえ(^^)
17条の憲法については聖徳太子論の核心ですから、過去から姦しい論争があった。
その程度は社会常識だろうが、全文を読んだ方は、、まあいない。
結構長文だし、四六駢儷体に習った華麗な漢文ですが、
倭人らしい誤謬があるのもご愛敬だとか。
冒頭の
和を以て貴し
三宝を敬え
詔は必ず謹め
なんかまでは誰でも知っているし、内容を克明に分析した先生によれば
憲法の核心はこの3つだけらしい。
まあ思うに、全くの虚構ではないが、日本書紀にある全文は、かなり装飾されていると
考えるべきだろう。
かくあれかし!という事は逆に言えば、現実はいがみ合い、決めた事を守らない、指示した事をやらない
って事が横行していたんでしょう。
平和主義的な仏教の精神でもって上位下逹が全うされれば
平穏な和謔の社会が生まれる、、とは太子らしいと言えばらしい。
これだけの革新政治が聖徳太子一人によるものと考えるには
無理がある。
当時の政治体制はトロイカ(推古、馬子、厩戸)であった以上
ヘゲモニーは誰にあったかはともかく「合作」だということかな。
意見の対立があれば何も進まなかった筈だし、理想の和の世界も
永くは続かなかった。
蘇我氏を後見人とする政治体制ですから、隙間風が吹けば危うい。
to be continued
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