2019年6月26日水曜日
元の黙阿弥、歌舞伎の定式
学生時代にかの曾孫が母校で教鞭をとっておられたはずだが、
当時は江戸文学に興味はなく、思えば惜しいことをした。
河竹黙阿弥は、逍遥先生によれば、明治のシェイクスピア、近松の再来
だそうですが、その曾孫は特段戯作者てもない。
多少大胆に言い切れば、歌舞伎の台本は第二芸術。
役者が舞台で演じてナンボの世界ですが、
謡曲同様に、演技と切り離されても、縁語掛詞に頭韻脚韻、
五七調の音韻になって古典素養をひけらかした言葉遊びの世界とも
なれば、単体でもたのしめる。
そのような作品が書けてこそ...シェイクスピアの再来である。
三人吉三
白浪五人男
にせよ、流麗絢爛とはこれを言う。
浅学菲才なことに、元の黙阿弥って河竹黙阿弥の逸話だと
思っていたが、筒井順慶の父親にまつわるエピソードらしい。
いささか疑わしく思うが、今日の本題ではない。
以下畏敬する橋本治さんのご高説のうち賛同するところだけ
つまみ食いすれば...
お武家以上にだけ許された芸事への憧憬はハンパではなかっらしい。
能舞台のような歌舞伎演目をやりたい...って悲願
松羽目物なる歌舞伎演目がありますが、基本は能楽の引き写し。
能の対極に狂言がありますが、歌舞伎はけだし狂言です。
下賤な河原者は士農工商の埒外にあり、なんとも非道なことに
公文書の上での数え方は「匹」
人並みに認められたい熱望は高かっただろうが、
天覧に供せられたのは、やっと明治の半ば。
天覧能は度々あったらしく、熱気ムンムンの記録は
読んだことがない。
しかし、天覧歌舞伎は阿国歌舞伎以来の壮挙ですが、
歌舞伎本来の怪異無稽、淫靡奔放、落花無惨な演目は
流石に御法度。
安宅を換骨奪胎し更に改竄された勧進帳なんかが演じられた。
河竹黙阿弥の晩年の頃である。
この辺りで興味は天覧イベントに移る。
主上の私的な行為ですから、主催者の働きかけもあるが
帝のお好みもあるだろう。
昭和天皇は相撲がお好きだったらしいが、
あとのサッカー、ラグビー、野球、競馬なんかはどうなんだろう?
調べるににNFLも天覧に供しているが、退屈されたでしょうなあ。
アメリカンの国技だからぜひとも...って押し売りされたんだ。
上皇陛下の御代はあまり記憶にない。
歌舞伎座公演は複数回お運びのようだが、能舞台は...?
まあ、能だとことの性格上「国家安寧五穀豊穣」ものの
一番物になるが、およそ面白くないし...
居眠りの様なんかが写メされると驚天動地。
お出ましいただかないようにするのが臣下の務め。
平成への代替わりの祝賀イベントでは、能歌舞伎が
演じられたが、人気は圧倒的に歌舞伎。
今回はその反省に立ってわかりやすく能を演じるらしい。
なんならアタシがプロデュースしてもいいが、
萬斎が担当するらしいから、出番はない。
アタシならば、半能でこれをやる。
歌舞伎では、鏡獅子とかなんとか...あの首振り体操の原型がこれ
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