2015年4月30日木曜日
仄暗い街灯は時をとめることが出来るか?
霧に咽ぶ街には街灯がよく似合う。
それも白熱灯のような明るさよりもガス灯のような黄色味のほのぐらさがいい。
倭国の街灯の歴史は…明治の初めの横浜は関内に始まるらしい。
街灯と石造建築な街並みは似つかわしいが、木造建築の世界は
火事の危険もあり、危なくてしょうがない・・・というよりも、江戸時代には
犯罪が極めて少なく、必要がなかったということらしい。
なんかあれば、御用提灯をひっさげればすむはなし。
町内ごとの木戸番
五人組の相互監視
微罪でも重罰で威嚇する
巧妙な治世の要諦である。
パリの街に街灯ができたのは、ルイ十四世のころ。
当然に観光資源ではなく、治安対策
効果のほどは・・・・まあ暴動の度に最初に街灯が破壊されたところをみれば、
それなりの効用はあったようです。
最初は、蝋燭。その後はオイル、ガスと進化したようですが、
今時であれば、監視カメラを叩き潰すほうが手っ取り早い。
しかし、権力の至高性とは「闇の支配より時の支配」である。
改元という制度
閏年制定の勅令
今だに明治天皇の勅令を法的に有効とし、和暦を捨てようとしない立場とは
どういうものか、その本質がよく分かる。
想起せよ!
パリの七月革命、パリコミューン。
民衆は、まず、時計台を破壊した。時間こそ王権の象徴である。
・・・さらに言えば、産業革命以降の賃金労働者は、時を支配される存在となったのです。
無駄な浪費としか思えない高額腕時計への偏執的欲求も、その文脈で
考えれば、幼児趣味的な時間の支配もどきな生業だろうが、そう思えば
あながち、バカにするものではない。
自らの魂を悪魔に売り渡す呪文こそ・・・
時よ止まれ!お前は美しい。
とどまるはずもない時間をあえて、自分の魂を悪魔に売り渡してでも
停めたい最高の瞬間。
いわば、己れの実在証明である魂と時の支配の交換である。
そんな最高の瞬間を人生で掴むことができるかどうかは知らない。
ファウストは、この言葉を口にすることで、メフィストフェレスに魂を
売り渡す憂き目を見たのか・・・・大昔に読んだだけなので記憶は曖昧。
調べ直すことは訳無いが、この手の話は、曖昧状態のままほっておくのが一番
さらに言えば・・・多くの誤解がある。
その理由は、ミュンヘンオリンピックの記録映画
時よ止まれ! 君は美しい。
この映像を観ながらだと・・・・普通は「おとめの姿 しばしとどめん」って思ってしまう。
当時の映画人は、才気ばしりすぎています。
原題は、visions of eight
当時の一流どころの映画監督八人によるオムニバス記録映画
でも、美しい誤解かもしれません。
この大会ではあの「黒い九月事件」なんかが発生しました。
選手村の街灯のなか、フェンスを乗り越えるテロリストは、警備員により確認されていたが、
イスラエル選手の「夜霧のしのび逢い」からの帰宅だろうと・・・・
結果、多くの犠牲者と数十時間の競技中断。
当時のIOC会長が、ユダヤシンパであれば、大会は中止されたかも・・・・
時が止まる瞬間
2015年4月29日水曜日
五感不満足
五感とは・・・
触覚
味覚
嗅覚
視覚
聴覚
いずれをとっても、人生を楽しく生き抜くには必要な感覚。
とりわけ、聴覚に障害があれば、発声にも支障が出る。
そのために「手話言語」体系が確立され、ちゃんと言語として認知されるようになった・・・
のが、やっとこさ2010年台である。
古い法律だと聴覚障害者のことを「いんあ者」と書きます。
ヤマイダレに音と口に亜・・・まず読めませんが、あえて差別用語を使えば「ツンボにオシ」
筒井某なる作家はツンボは「聾」・・龍の耳と書く美しい日本語だと筆禍事件の際に強弁しましたが
それはそれとしても「イン」の漢字は「美しく」はない。
そんなことよりも、失念していた刑法40条。
刑法39条を調べていて気がついた(・・・というか記憶が蘇った)
実は刑法の第七章には「刑の不成立や減免」を定めている。
正当な行為、正当防衛、緊急避難は、処罰しない。
心神喪失や心神耗弱と同様に「聾唖も処罰しないあるいは減免」を定めているのが第40条
耳や口が不自由だと自分の行為の結果の識別や善悪の区別もつかないとは・・・ひどい話ですが。
これが20世紀末までの倭国の「罪と罰の原風景」であったということ。
かの「現代のベートーベン」は、ちょっと前まで刑法犯罪者になることはなかったのです。
さすがに95年に第40条は削除されました。
お手軽にNETで調べても、条文は出てきませんよ(笑)
蝸牛庵ですら・・・結構時間かかりました
刑法第40条(インア)
インア者ノ行為ハ之ヲ罰セス又ハ其刑ヲ減軽ス
どのような場合に罰せず、あるいは減軽したのかまではよく分かりません。
障害の程度ではなく、障害に起因する知能の発育度ではなかったかと想像します。
そもそも適用事例がどの程度あったのかどうかも・・・
この時期同時に尊属殺人条項も削除されましたが、別に最高裁で違憲判決が
出たわけでもなさそうです。
被害者団体からの「不当条項」との批判も聞いてません。
多分障害者団体の悲痛な叫びに、不作為を旨とする行政府も心を動かしたのでしょう
先進諸外国から嘲られた・・・って一番有りげかもしれません。
思えば、障害者に対する理性的でも論理的でもない差別・蔑視・忌避等目に余る・・・が
ここで話題は刑法39条にループするのですが、毎度では飽きが来る。
時世時節を考えてからにしよう。
2015年4月28日火曜日
罪を憎めないなら人を憎むしかないでしょう
先日のこと、ある刑事弁護専門の先生との会話。
お互いに相当にアルコールが入っているので、まともな会話とも思えない。
アルコールが入ると本音の会話ができるなんて信じていない二人だし、
刑法39条2項にいうところの「心神耗弱」状態に等しいもんで
責任能力を問われる心配は少なく発言は自由自在
内心は・・・「原因において自由な行為」かも(苦笑)
どっかの底辺医科大学(ヤフー知恵袋によればですが・・)で「精神保健指定医」の
組織ぐるみ不正取得があったようです。
かような行為が存在してもなんとも思わないが、どうして発覚したのかしか興味がない。
どうも、倭国の精神医療(行政)の「水準」がいかなるものか
・・・暗澹たる気持ちになる事例が「また増え」ましたねえ。
実のところ「また増え」たってところが問題の根っこである。
くちにすることも憚られるやんごとなき御方の御不例は、
10年以上たっても完治の目処が・・・多分たっていないのでしょうねえ。
その辺のやぶ医者じゃなくて、最高水準の精神科医師の腕でもなんともならないのか?
いっちゃなんですが、未開地の呪術師レベルだとヒキガエルの姿煮なんかで
難病を直してしまいますが・・・
刑事弁護のセオリーは・・・
まずは「ボクはやってません」から反論の入り口に立つ。
罪状認否で頑張って「冤罪事件」イメージを植え付ければしめたもの。
あとは支援団体が勝手に頑張ってくれます。
当然に死刑事案だと更に支援の輪が広がる。
それがどうしようもなければ「犯行当時心神喪失あるいは心神耗弱」だったと強弁する。
知能犯罪ならいざしらず通常の刑法犯罪の場合、
実行すること自体精神的に異常な状態であることは間違いなく
精神鑑定のやり方しだいで刑法39条適用にもっていく主張はそう難しくない。
精神鑑定って十人十色(笑)・・・鑑定と言えば科学的に聞こえるがまあその程度
言ったもん勝ちで新型うつ病認定に似てなくもない。
こんなワルの手口で「狂犬もどきなるもの」が野放しにされている状態は危険極まりない。
しかし、弁護技術と精神医療行政の貧困を錯乱させるのは筋違い。
犯罪を起こしたいと思った時に心神喪失状態になるのでなく、
たまたま心神耗弱状態に陥った(責任能力のない)状態で犯罪を起こしてしまうのです。
そういう可能性が起こりうるのであれば、首輪につなくなり、檻に入れておけばいいわけで
これは法廷の場の議論ではない・・・
確かにそうですよね。
そういう制度設計をちゃんとやっていない行政権の懈怠です。
全てがそうでもないのでしょうが「精神保健指定医」認定の闇に鑑み、
本来隔離入院されるべきでない患者が誤判断で(・・と人権団体はいっているようですが)
ということよりも逆の事例がより心配になる。
宗教系大学の高名な学者のご子弟が人殺し
おかしな言動で有名だった淡路島の男の大量殺人
同級生の首をキリトッた長崎の有名弁護士のお嬢さん
ほかにもたくさん・・・アルコールのせいで思い出せない(・・・くらい多いのですよ)
後付けの情報を見るにつけ、ちゃんと檻に入れておけば・・・って思うしかない。
彼ら(彼女たち)は、多分精神鑑定の結果「責任能力がなく」無罪あるいは不起訴処分
一応治療は受けるんだろうが・・・そのうち首輪からも解放される。
精神病患者だから刑法犯罪率が高いとは言わないし、統計的にもそうは言い切れない
しかし、一定の重犯罪(殺人・性犯罪等)では、明らかな再犯性や発生率の高さが認められると
言われているらしい。
そりゃそうだ。
刑法犯罪を十把一絡げで犯罪数と患者数(あるいはヒトザルの数)の発生率で論じるのは
正鵠を得ているものではない。
本当に殺され損
量刑以前に罪に問われることもない。
そのうち「治療が終わり」シャバに出てくる(何度も出入りしている例もあるそうな・・)
保護責任者の管理責任追及って民事で慰謝料請求は可能でしょうが、
カネで命がかえってくるわけではない。
いっそ、タリオの原則(応報刑主義)のほうがまだまし。
こういう話の展開になると必ず登場する・・・
あの「罪を憎んで人を憎まず」・・・・聖書にある言葉らしいが、出典は「孔叢子」だとか。
道学者めいた偽善的な匂いのする嫌な言葉で「報復の連鎖防止」のつもりらしいが
全く心に響かない。
古之聴訟者、悪其意、不悪其人(罪人の心情は憎んだが人そのものは憎まなかった)
刑論にある孔子の言葉そのものと異なるし、よくよく読めば多少意味も違う
今風に言えば「主観主義的刑法理論」である。
NETを換骨奪胎しながら引用すれば・・・
犯罪における客観的な実害や侵害的事実よりも
犯人の意思ないし犯人の一身的な犯罪性に重点を置くものが主観主義刑法理論。
犯罪により生じた実害、客観的な侵害的行為の方面に重点を置くのが、客観主義刑法理論。
犯罪の主観面を強調すると実害の発生を待たずに可罰的行為の範囲が拡張され
他方では実害が生じても犯人の悪意が欠けるときは責任が軽減されることになる
ちょっと物議をかますような物言いをしますが・・・
心神喪失とは、自分の行為の結果の判断能力や善悪の識別能力がない状態を言い、
犯罪者としての「意思はなくとも一身的な犯罪(の危険)性は高い状態と言わざるをえない。
だからといって、責任能力はない以上処はできない。
処罰はできなくとも治療はできるはず。
罪刑理論上は罪と罰のバランスはとれていることになっている。
懲役10年と言われても、改悛が見られれば7年で仮出所もありうる。
治療だって、そんな理屈のバランスに成り立っているのであれば、兎や角は言わないが・・・
https://www.youtube.com/watch?v=Mww7O_QleeE
2015年4月27日月曜日
捨てる神とか拾う神やら
高額年収と名声あるいは社会的地位を保証されているはずの弁護士稼業ですが、
かの司法改革のおかげで単なるブラック職業になりつつある。
底辺を広げれば、富の分配システムがおかしくなるのは当たり前であり、
生活保護弁護士が出てきてもそれは致し方ない。
蓄えもなく、顧問先にも恵まれない高齢弁護士は、年金と国選弁護稼業で
糊口をしのぐ有り様だとか・・・
さしたる法律知識がなくともできる過払い返還請求稼業も底をついた・・・
弁護士会の懲戒件数も千件を超える有り様。
衣食足りて栄辱を知るとは、まさにこのことである。
しかし、焦ること・諦めることはない(笑)
彼は、土木作業員の子供としてアーカンソー州(全米最貧困州らしい)に生まれた。
思うところがあって、ボロ大学のロースクールを出て、貧民相手の弁護活動を
十年ばかり・・・
まあ、雑多でクズみたいな事案ばかりを扱ったのでしょう。
十代の頃は低賃金の3Kアルバイト三昧だし・・・明るい未来なんか欠片も見えなかったに違いない。
しかし、日常雑記のような日記書きの習慣が身を助けることとなった。
評決のとき
法律事務所
ペリカン文書
依頼人
処刑室
原告側弁護人
陪審評決
雑多な体験を元に書き上げたリーガル・サスペンスはことごとくベストセラーになり、映画化も・・・
NYのロー・ファームのパートナーでも及びもつかないほどの富を得ることに成功した。
邦訳されている最近作は・・・
司法取引
巨大訴訟(・・・これは以前にブログネタにしています)
司法予備試験経由で弁護士になれると金メダルということで大手事務所から声が掛かる。
それでない法科大学院口は・・・諦めずに雑多な反吐が出そうな事件をコツコツと十年ばかり
追いかけること
そして、満を持してベストセラーを書き上げる。
文学に興味が無いとか字を書くのが嫌いって・・・そんな趣味嗜好であれば
人間を辞めた方がいい。
本当の名医とはシェイクスピア程度はちゃんと読んでいるというではないか
弁護士もしかりである。
彼・・ジョン・グリシャムは、ヴァージニア州の片田舎に住まいしていた頃
野球グラウンドのない寒村だもんで、
私財を投げ打って全米最高のリトルリーグ球場を寄贈したらしい。
ざっと数十億円(・・・今までの稼ぎのほどがわかります)
たかがミステリー作家ですので、一流文学者として歴史に残ることではないが
オカネの稼ぎ方と使い方は、一流だと心服した次第。
いまは「司法取引」を読んでます。
途中までですが、取り立てて面白くはない・・・が、多分下巻でどんでん返しがある。
悪党の稼ぎの上前をはねるって、アンモラルどころかイリーガル。
それを司法取引で「免責」にしちゃう話みたいです。
巨大訴訟は面白いかったし(ゴリアテに挑むダビテって永遠のヒーロー)、
映画化された中では陪審評決(ニューオーリンズトライアル)が一番かな。
2015年4月26日日曜日
読み書きが出来ないことの「幸福」
戦前の陪審裁判の陪審員の欠格事由に「読み書きが出来ないこと」が
明記されていることは先日のブログに書いたとおりである。
当時の識字率に鑑みるにそうなんだろうとは思います。
しからば、裁判員の欠格事由にそんな失礼な事を・・・やっぱり書いてます(笑)
もっとも「義務教育未了」という書き方。
但し書きがあって、未了でも相当の学力があれば足りるらしい。
表現方法が変わっただけかもしれません。
例えば・・・「白痴痴愚魯鈍ハ任ニアラズ」って書けないが、そんなものである。
しかし、主権者の信託を得て政治を行う御仁の欠格事由にかようなものはない。
読み書きができなくとも「アホ」でも・・・そういう方々が座布団バッチを
付けている可能性は理屈上否定できません。
全ては有権者の選択に委ねられている。
ジェーン・フォンダとデ・ニーロの共演作が「アイリスへの手紙」
四半世紀くらい前のラブストーリー。
超大物が出ている割に手軽なラブストーリーだった。
結構シリアスな人間ドラマにもなるはずが・・・
フォンダが別れ際にデ・ニーロに語りかけるのです
電話じゃなくて手紙を書いてね
どってことないセリフですが、実はデ・ニーロは読み書きができない。
不幸な少年時代があったのです。
しかし、タイトルからすれば、ちゃんと勉強してラブレターを書いたのでしょう。
例えば「愛を読むひと」
ヒロインは、ユダヤ人虐殺の罪に問われる。
文盲の彼女が、アウシュビッツ送りの指令書が書けるはずもないが、
プライドでしょうか、事実を告白することなく罪に服する・・・
この演技でケイトウィンスレッドはオスカーを得ました。
実際のところ、かなり複雑な物語構成の秀作でした。
しかし、読み書きが出来ることで不幸な人生を余儀無くされたポーランド人がいた。
正確に言えば、ポーランド系のジプシーの女性。
ジプシーとは差別語らしいが・・・漂泊の民の代名詞
民族的にも多岐多様らしく、定住の意思を持たない以上、国家形成の願望はない。
大道芸としての音楽演奏、カード占い、しばしばのかっぱらいを生業とする。
空虚なネット雑学には書いていない驚愕の事実・・・ジプシーは書き言葉を持たない。
文字は化外の民の悪魔的呪文だと忌み嫌う。
しかし、詩才に恵まれた一人の少女は、文字に魅せられ・・・・
ジプシーの民の禁忌に触れてしまったため、
貧困、疎外、孤独な人生を余儀無くされるジプシー唯一無比の女性詩人の
映画が、ひっそりと岩波ホールで上映中。
入りはイマイチ。
ポーランド映画と言えば、ナチスやスタートニストの非道を言挙げし、
それに雄々しく抵抗するポーランド民族を称えるもの・・・という刷り込みがあるらしい。
映画とは資本主義の枠の中でヒトザルにとって普遍的なテーマを
ある程度商業主義的に描くことで命を長らえているって当たり前のことを
理解すべきである。
この映画は、相当に重いのですよ。
その重さを救うのが、これ以上がないモノクロ美しい静止画的映像。
「静謐」とはこの映画のためにある言葉以上でも以下でもない。
読み書きができるということは人間の尊厳のスタートラインであるはずが、
逆に尊厳を傷つけてしまう現実。
文化は差異であって優劣ではない・・・というテーゼが揺らぎそう。
2015年4月25日土曜日
二人一役あるいは二人二役
ウォシャウスキー
タヴィアーニ
コーエン
兄弟(姉弟)映画監督なる存在は結構多い。
記載の兄弟(姉弟)は、超有名ドコロだけ、雑多な存在なら数撃ちゃ当たるくらいかも・・・
しかし、これが、小説(文学)や音楽となると、皆無ではないが、希少性が出てくる。
創作プロセスからすれば、共同作業のおおい映画ではありがちとも言える。
ディズニー映画の作詞作曲で有名なシャーマンブラザースは、
作詞と作曲を兄弟で分担していたようで、同列に扱っていいのかどうかちょっと悩む。
漫画の美味しんぼでは、麺と出汁を兄弟で分担する極旨ラーメン屋が登場するが、
これは共同作業だ。
詩と曲は、ユニークに存在可能だが、出汁と麺が別々だと・・・ラーメンにならない(笑)
これが小説の世界だと・・・・さて?
エラリー・クイーンくらいか。
しかし、この二人は、ほかにドルリーレインのペンネームももってますから・・・二人二役
20世紀末は「マトリックス」という魔法で幕を閉じ、21世紀は幕を開けた。
ウォシャウスキー姉弟は、このシリーズで世界的な名声と富を得たようですが、
その後は鳴かず飛ばず・・・名声を傷つけることの繰り返し。
どっちかといえば、映画製作よりもコミック作家ですので、
そっち系でないと映画も面白く無い。
2015年2月に満を持しての・・・「ジュピター」
タイトルも凄いし、製作費も二億ドル弱。
コンテンツも壮大です。
この地球の所有者が宇宙の果てのどっかに存在していて、その利権を巡っての
骨肉の争いにヒトザルと狼の雑種の戦士が絡みあうというストーリー展開。
批評家の評判もイマイチで予想通り、全米興行でこけました(笑)
おかげさまで、日本公開はひっそりと3月末。観客はまばら
あのマトリックスシリーズの監督作品だと知らなければ、
結構楽しめるんですが、この有り様だと出資者は集まらずもう二度と映画は作れないですね。
この続編を見てみたい(・・・レンタルで十分ですが)って思うのですが、まず無理。
そうそう・・・
タヴィアーニ兄弟やコーエン兄弟は、相変わらず名作・佳作を作り出しています。
才能の違いでしょう。
そういえば、映画の父、リュミエールは兄弟だった。そういう運命の芸術なのですよ。
今年のオスカー主演男優賞俳優が、悪役として登場しますが、希代の芋役者。
あのホーキンス博士の演技は何だった?
一生に一度のゾーン体験かな(笑)
過去にも、そんなオスカー俳優がいましたねえ。
2015年4月24日金曜日
日本で一番「短い」・・・・多分間違い!
ウィキペディア(日本語版)ではこの法律だと書いてますが、なんか勘違いです。
元号法
1 元号は、政令で定める。
2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
委細は繰り返しませんが、もっとも、附則まで数えれば「元号法」のほうが短いといえば短いが・・・・
原典引用まみれの注釈のページばかりが多くても大作とは言わないから・・・
まあ、そんな無の饒舌のようなトレビアはどうでもいい。
ちゃんとした法的根拠をもって存在するのが元号であり「昭和」にせよ「平成」にせよ
本来であれば正面切って使うべきなんでしょうが、
紀年法からすれば「有限」というのは改元のたびにリセットされるのが面倒だし、
自分の腹の中の時間軸に照らして使いにくいってこともある。
それに一番厄介なのが、改元の手続き
今でこそ皇位継承(天皇崩御および皇太子即位)の場合だけであるが、
過去は吉事・凶事のたびに改元があった。
王権が対立すれば2つの元号が併存した例も多々ある。
さらに言えば「新元号の始期」は何時かってことも問題になる。
1.立年改元
2.即日改元
3.翌日改元
4.踰年改元
理屈っぽく言えばこれだけの種類があるらしい。
慶応四年9月に「明治」に改元されたが、その際は(1)のルールに従った。
つまり、慶応四年一月一日なる存在は遡及修正されて、
明治元年一月一日になったということですが、一旦刷り込まれた年号の修正は簡単ではない。
歴史ドラマなんかでも、堂々と明治天皇は慶應四年三月十四日(旧暦)に五箇条の・・・
なんていいますが、本当は正しくない。
しかし「御誓文」の正式布告文には、慶應四年・・御名御璽って印字されてるだろうし、
それをいまさら・・・
硬貨の刻印なんかどうしようもないし・・・
明治から大正、大正から昭和は(2)で行われた。
つまり、新元号が布告された「その日」から新しい元号になったということである。
その日という意味ですが、これも理屈をこねれば・・・
布告日の午前零時に遡る
崩御された時刻に遡る(場合によっては布告の前日になることも・・)
布告が開示される時刻が分水嶺
よく分かりません。
同月同日が2つの元号に存在するって・・理解し難い。
多分解釈や統一見解が曖昧なまま時が過ぎたと想像されます。
確証はないのですが、昭和から平成は(3)で行われたのが傍証。
新元号布告の翌日(午前零時からということ)から平成になったのです。
これだとスッキリします。
64(ロクヨン)
横山秀夫の名作警察小説ですが、最近文庫本になりました。
奇妙なタイトルです。
たった七日間しかなかった昭和64年(1月8日からは平成です)に
発生した迷宮入りの営利誘拐殺人事件がモチーフです。
改めて読みなおしていますが、やはり面白い。
別に元号制定のトリックは出てきません。
2015年4月23日木曜日
二足の草鞋
語源的には、単にダブルポケットということではない。
コンフリクトな2つの職業を兼営することを言う。
端的に言えば・・・博徒と捕吏
底辺医科大学出身のドクターがTVでコメンテイターやっても
正体不明の歯科医者集団がJPOPSのバンドやっても
商社マンが純文学者やっても
IT会社社長がプロ映画鑑賞家をやっても「二足の草鞋」とは言わないのが正鵠を得ている。
そういうことだから、平成の御代
利益相反な二足の草鞋を履く事例は皆無に近い。
公になれば・・・コンプライアンス違反の批判が大波が押し寄せる
しかし、知る限り・・・
かつて上野警察署の八神瑛子警部補は個人で闇金をやっていたそうである。
顧客はもっぱら警察社会で小遣いに困っているオッサン連中
債権回収を梃子に連中を飼い犬化し、抜群の捜査成績をあげていた。
イエロージャーナリズム的には、座布団バッジを付けた893とかその逆とか
言われることがあるが、確証のある話ではない。
山の手のおしゃれな街の一角にある瀟洒なクリニック
年齢不詳の(実は知ってますが・・)美人歯科医者。腕もお顔なみ・・・ちがうなあ、以上かな(笑)
・・というのは世を忍ぶ仮の姿で、実はJAZZシンガー
俗耳的には二足の草鞋というところなんでしょうが、
正しい物言いではないと繰り返すほどのことでもない。
開業10年だそうで、メモリアム私家版のCDをだしたそうです。
SONGS FOR YOU
オフィスの机の上の置いたままです。
PCのメディアプレーヤーの設定がおかしいみたいで、鶴首して修復作業待ち。
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昨日、有能な我が技術者が修復しました。
なんといいますかねえ・・・・NYのため息(この程度褒めとけばいいかな・・・笑)
2015年4月22日水曜日
グランドスラマーの運命
ビッグタイトル(主要な大会)を全て制覇することとされる。
ゴルフやテニスが有名だが、他にも多々ある。
とりわけその年で全てに優勝すれば「年間グランドスラマー」として
その栄誉を高く讃えられるが・・・
テニスでは何人かいますが、ゴルフはキャリアグランドスラマーしかいません。
しかし、知的競技においてはかような物言いをしない。
羽生さんが主要な全てのタイトルを制覇した時(七冠王)にも「グランドスラマー」とは言わなかった。
どうしてかってことは別にどうでもいい。
実質的に彼は最高の棋士だということです。
しかし、毎年大会が行われる競技であればチャンスが何度もある。
その意味で価値はあるものの、価値の程度評価は様々
従って、有史以来最高のグランドスラムは・・・
この同年度に開催される三大会全てのピアノ部門に優勝すること!!!
ショパン国際ピアノコンクール(5年毎)
チャイコフスキー国際コンクール(4年毎)
エリザベート王妃国際音楽コンクール(3ないし4年毎)
ビックリマークがいくつあっても足りないくらいの偉業だと思います。
生涯にチャンスは(・・多分)一度だけ。
さらに言えば、有史以来同年度でこの三つの大会が開催されたことがない(笑)
ショパンとチャイコは、1970年、1990年に同時開催され、
最小公倍数的には2010年のはずが、様々支障があってずれてしまい・・・
さてさて、2015年が四半世紀ぶりの同時開催年
エリザベートは、2013年開催でその前は2010年。
最高のチャンスの年だったのですが、真に残念でした。
興行的にも、一年間で三大タイトル同時開催って「旨味」がないって
胴元の薄汚れた打算もあったのかもしれません。
元凶はスラブ人。
今年のショパンとチャイコはどうなるんでしょう?
過去の歴史を見るに、当然に同時優勝者はいません。
90年にアメリカのケビン・ケナーが
ショパン:2位(優勝者なし)
チャイコ:3位
くらい・・・
しかし、知らないピアニストですねえ(苦笑)
ちょうど今しも来日演奏ツアー中。
多分、セールストークは「史上唯一の同時入賞者」ですよ。
・・・と思いきや、アジア系ヴァイオリストの伴奏者みたいです(つまりただの脇役)
権威あるコンクールの優勝(入賞)とはゴールではなく、
スタートラインってよくわかりますねえ。
フィジカルスポーツと知的格闘技は本質がちがうのですよ。
失礼ながら、三大ピアノコンクールも芥川賞なみになったようです。
2015年4月21日火曜日
貴方はどちらを選びますか?
R・L・アーメイとJ・K・シモンズ
プロ映画鑑賞家らしからぬ月並みな対比から始まる(笑)
罵声、怒声・・・「言葉の暴力」力が人生を変えた。
ハイスクール時代はどうしようもないワル。
判事のアドバイスを無視し、海兵隊ではなく刑務所を選んでいれば、とうの昔に野垂れ死だったにちがいない。
退役後、経験を生かして、軍系のテクニカルアドバイザーを始めて、キューブリックに出会った。
この慧眼な映画作家は、彼の才能を見抜き、訓練教官であるハートマン軍曹に抜擢した。
その結果は、誰でも知っている。
かたや、地道にショービジで生きてきた。あまり印象に残る脇役でもない。
スパイダーマンの上司の編集長くらいか?
シモンズがグーグル検索でも、まず登場するのは
ベッド屋
女性ディオ・・・・(爆笑)
しかし、地でやっているのと演技をやっている程度のっていうか相当の
違いは感じられる。
さて、名門シェイファー音楽院のノートが貰えるってキャンペーン・・でも
ちょっと面白いことに、ある映画解説では・・シャッファー音楽院とかいています。
極私傾向主義的なプロ映画鑑賞家の追求は鋭い。
どうでもいいことですが、英語版の検索サイトをあちこちみるに・・・・
Shaffer
Schaffer
この架空と思われる音楽学校は、いつのまにか正しいスペルが混乱しだしたらしい。
正式な学校名もよくわかりません。
これもネットの孫引きの悪弊の結果でしょう
英語版のウィキペディアでは・・・ the prestigious Shaffer Conservatory in New York.
あのニューヨーカーでは・・・ New York’s fictional Shaffer Conservatory
ガーディアンでは・・・ the Juilliard-like “Shaffer Conservatory”
インデペンデントでは・・・ at the Shaffer, an elite music school.
テレグラムだと・・・fictional Schaffer Conservatory of Music in New York City
Forbesでは・・・the fictional Schaffer Conservatory’s
ブロードストリートレヴューなるものでは・・・the fictional Schaffer Academy in Manhattan.
因みに、原題は・・・whiplash
蠱惑的でこんなそそるタイトルなのに、どうして改悪したのでしょうか。
センスと性癖を疑います(笑)
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プロ映画鑑賞家らしからぬ月並みな対比から始まる(笑)
罵声、怒声・・・「言葉の暴力」力が人生を変えた。
ハイスクール時代はどうしようもないワル。
判事のアドバイスを無視し、海兵隊ではなく刑務所を選んでいれば、とうの昔に野垂れ死だったにちがいない。
退役後、経験を生かして、軍系のテクニカルアドバイザーを始めて、キューブリックに出会った。
この慧眼な映画作家は、彼の才能を見抜き、訓練教官であるハートマン軍曹に抜擢した。
その結果は、誰でも知っている。
かたや、地道にショービジで生きてきた。あまり印象に残る脇役でもない。
スパイダーマンの上司の編集長くらいか?
シモンズがグーグル検索でも、まず登場するのは
ベッド屋
女性ディオ・・・・(爆笑)
しかし、地でやっているのと演技をやっている程度のっていうか相当の
違いは感じられる。
さて、名門シェイファー音楽院のノートが貰えるってキャンペーン・・でも
ちょっと面白いことに、ある映画解説では・・シャッファー音楽院とかいています。
極私傾向主義的なプロ映画鑑賞家の追求は鋭い。
どうでもいいことですが、英語版の検索サイトをあちこちみるに・・・・
Shaffer
Schaffer
この架空と思われる音楽学校は、いつのまにか正しいスペルが混乱しだしたらしい。
正式な学校名もよくわかりません。
これもネットの孫引きの悪弊の結果でしょう
英語版のウィキペディアでは・・・ the prestigious Shaffer Conservatory in New York.
あのニューヨーカーでは・・・ New York’s fictional Shaffer Conservatory
ガーディアンでは・・・ the Juilliard-like “Shaffer Conservatory”
インデペンデントでは・・・ at the Shaffer, an elite music school.
テレグラムだと・・・fictional Schaffer Conservatory of Music in New York City
Forbesでは・・・the fictional Schaffer Conservatory’s
ブロードストリートレヴューなるものでは・・・the fictional Schaffer Academy in Manhattan.
因みに、原題は・・・whiplash
蠱惑的でこんなそそるタイトルなのに、どうして改悪したのでしょうか。
センスと性癖を疑います(笑)
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2015年4月20日月曜日
文法としての「あるいは」そして「括弧」の使い方
オスカー作品賞の初日公開にあるまじき入りの悪さ。
確かに賛否両論あるだろうが、実のところ難易度の高い映画で大衆的ではないのです。
第三作まで作られたブロックバスター映画であるバードマン(アメコミダークヒーローもの?)の主役俳優も、
今や落ちぶれ、起死回生をかけたブロードウェイの舞台進出。
NYの演劇人は、ハリウッドアクターには冷ややか。
様々な苦闘を乗り越えての初日公演。
・・・とまあ、定番のバックステージカムバックものを期待した向きには当て外れ。
その程度ならばノミネートもあぶなかった。
主役のマイケルキートン自身、バットマン役者以降鳴かず飛ばず。
なんか自伝的な所も話題の一端。
しかし、プロ映画鑑賞家の極私的傾向主義に照らせば、
オリジナルタイトルを「誤読」した事による興行戦術の失態である。
バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)
Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)
Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)
まず、眼光紙背に徹するくらいにこのタイトルを睨みつける(笑)
この「バードマン」とは、かつて大人気だったアメコミヒーロー映画のタイトル。
鳥人間というだけあって、飛翔能力やその他様々なオカルト的な能力も持っているらしい。
NY演劇人なんかだと歯牙にもかけない駄映画に違いない。
次に「あるいは」
副詞なのか?接続詞として使っているのか・・・ってところが解釈の分かれ道。
接続詞であれば、そのうちのどちらかという関係にある二つのものをつなぐ語として使われますし、
同類の事側を列挙しその多様性の表現に使われます。
まさしく、英語の「OR」そのものである。
次に「括弧」
日本語の語法には、元々は「括弧」なんかなかったと思われます。
明治以降の輸入産品。
使い方によってはなかなか便利で、通常は、説明文自体または読み飛ばせる追記事項
などを書く場合に使われる。
しかし、バードマンの説明あるいは追記なのか、あるいはのそれなのか・・・?
判然としません。
最後に括弧の中の文章・・・
かなりな意訳が行われています。
この単語で「奇蹟」を意味させるのは相当に無理です。
通常は、善とか美
修飾する形容詞が「予期しない」はまあいいとして、
予期せぬ美徳
無知
・・・を接続する「OF」の意味合いはなんなんだ?
この接続詞の属格は非常に難解で、
無知という性質の一部に予期せぬ美徳が含まれるって理解が普通だが、
もたらすという解釈も間違いではない。
そもそもこの括弧内の言葉は、NYの辛辣な演劇評論家の書いた舞台批評記事の一節である。
ブロードウェイ演劇の守護神を自負するこの評論家にとって、
ハリウッドの落ち目のムービーアクターなんかはおよびではなく、
批判的記事で鎧袖一触に葬り去ろうと考えていたが、さにあらず・・・
しかし、手放しで褒めれば自尊心が傷つく(苦笑)
才能がないがゆえにビギナーズラックで大穴万馬券をとっちゃったって舞台ですよ
多分ブロックバスター映画だって、そういうたぐいだったのよ
所詮イモ役者!
評論すらしたくない・・・
って、悔しそうに褒めている・・・というニュアンス
つまるところ、この映画は、NYの舞台でカムバックしようともがく役者を描くつもりが
なんだか支離滅裂な妄想劇になっちゃて、
バードマン映画のシリーズ第四作でさっそうと銀幕に登場するヒーロー映画に変化したった
解釈です。
そう思えば、バードマンのさっそうと活躍するシーンは、なかなか見応えがある。
だから、この映画のタイトルは「バードマン」それだけ。
あるいはってことで、舞台の劇中劇を対等に扱おうっておもったが、
所詮は、読み飛ばす程度もものでしかないということを括弧で表現する。
閑話休題。
両方(更にTVや音楽)で活躍し、栄誉に輝けば「EGOT」と讃えられる。
両方(更にTVや音楽)で活躍し、栄誉に輝けば「EGOT」と讃えられる。
エミー賞、グラミー賞、オスカー、トニー賞の4つすべてを受賞した人を指していう言葉であるが、
歴代でたった十人内外(・・・だそうです。NETの引用)
リチャード・ロジャース
ヘレン・ヘイズ
リタ・モレノ
ジョン・ギールグッド
オードリー・ヘプバーン
マーヴィン・ハムリッシュ
ジョナサン・チューニック
メル・ブルックス
マイク・ニコルズ
ウーピー・ゴールドバーグ
スコット・ルーディン
なんか才人ばかりで、本当に映画史や演劇史に名を留める方は少ない。
2015年4月19日日曜日
エス(S)
あまりイメージの良い言葉ではない。
スパイの略
シスター(メス同士の口を憚る関係)の略
従って、それが三つも重なれば、愚民政策の代名詞となってもおかしくない。
スクリーン(映画)
スポーツ
SEX
そういえば、バブル時代の学生採用活動の三種の神器も3Sだった。
Susi
Steak
Soap
愚民政策と似たりよったりで、結果そのレベルも・・・って言っているわけではない。
真っ当なモノ作りの企業では「3S」なんか当たり前。
ここでいう「3S」は真っ当な3Sである。
物事はエスカレートして、5Sから7Sへ
しかし、そこまでしつこく言わないと作業手順ができないレベルの従業員を抱えているのかって
嘲られるのがオチ。
3Sとは・・・
整理
整頓
清掃
更に・・・
清潔
躾(しつけ) ・・・で5S。加えて・・・馬鹿馬鹿しいからやめよう(苦笑)
スローガンは沢山あれば良いってものではない。
劉邦いわく・・・「法ハ「三」章ニテ足ル」
元々は、50年台の生産性向上運動の中である種自然発生的に生み出されてきたように
思えるのが「整理と整頓」の概念整理。
ある意味・・・目からうろこ(・・・当時の労働者もそう思ったに違いない)
整理:いるものといならいものを分別し、いらないものを捨てる
整頓:いるものを使いやすいように並び替える。
あとは余計なこと。
お掃除好きで清潔で・・とは倭人固有の資質。
言われなくともわかっている。
しつけ(躾)に至っては、国字である。
つまり、中国本家にはない漢字である・・・ってことは概念もないのだ。
逆に、そういう資質があるのだが漢字がないので不便ということで創りだした文字。
余計なことを言い出してから生産性運動はおかしくなり・・・
海外展開によりその必要性が再認識され、
しかしながら展開すべき「S」の順番を倭式でやるもんだからうまくいかない。
躾 → 清潔 → 清掃
アタリマエのことができてから教えるのが「整理整頓」ではないかと・・・
銀座中央通りを我が物顔に闊歩するツアー客を見ながら思う今日このごろ。
2015年4月18日土曜日
未知との遭遇(なんちゃら投資入門なるもの)
知らないものには手を出さない・・・じゃ蔵が建つが、面白くもなんともないもんで
あえて、薦められたからってわけでもないが「全く知らない世界」に、胸ときめかせて・・・・
古銭学(貨幣学)なる学問領域がある。
樺山紘一さんの「ルネッサンス周航」だか「西洋学事始」で大昔に知ったこと。
何分、あまり読みやすい内容でもなかったもんで、記憶はうっすら。
それに、古銭に関しては日本貨幣史は貧相なものであるから、西洋と比較して裾野も狭い。
コイン収集って、オタク的な趣味でしかなかった。
なかなかロマンのある投資術みたいな気がしてきた。
アマゾンから先日届きました。
惹句(書籍の帯)に曰く・・・・
早い者勝ちの資産形成術(昨年11月が初版だから、まだ間に合う!)
八万円から始められる (この程度のはした金じゃリターンもしれてますがねえ)
年利20~50%も当たり前(みずほ銀行の元審査役のセールストークと同じだなあ)
株やFXより安全安心(FXはその通り。株だって新興市場は鉄火場。今火だるまなんですよ)
不動産より簡単低予算(欲しいと思ったセントゴーデンズは3億円くらいします!)
美術品より手間いらず(これには激しく同意)
金より価値がある(価値と言っても、交換価値とか希少価値とか様々で・・・)
言えることは、倭の書画骨董よりも交換価値としての普遍性は高そうだ。
いくら自慢の「鬼萩」だろうが「唐津」だって、NYのオークションには出品すらできない。
毛唐が食指を動かしてくれるような「美の再発見」って、誰かやってくれないかなあ。
21世紀のフェノロサやブルーノ・タウトを発見し、誘導する方に金をかけるほうが、
資産倍増の早道なんですがねえ・・・(苦笑)
クールジャパンでコミックやアニメの価値上昇に予算を投じるくらいならば、
古来の古美術の市場振興をどうしてやらないのかねえ・・・
2015年4月17日金曜日
クオタという制度・・・雌鳥が時を告げる日
四分の一じゃなくて「割当制」のことです。
所謂マイノリティの権利保護あるいは社会進出の一助としての制度。
機会均等あるいは平等の観点から、世界標準的に望ましいこととされています。
女性の政治参画が遅れていたフランスでさえ「パリテ法」を制定し「完全な平等」を
目指すくらいですから流れは変わらないが・・・
一方で様々な批判もあるわけでして
機会平等はともかく結果平等は行き過ぎ
逆差別の助長(平等原則違反)
女性だけがマイノリティではない。人種、信条、社会的身分又は門地や・・・
どんなシステムでも長所と短所があるわけであり、
どんな愚劣な制度でも「最初は善意から」と言われる。
その是非は「結果判断」・・・制度導入で社会が良くなったのか?でしかない。
クオタ制度がなくとも女性の社会進出の目覚ましい国家もある。
議論を呼ぶような制度設計でなくとも方策(政策誘導)はいくらでもある。
逆に国家システムの劣化を招いていないのか・・・という疑念もある。
二股柔道家の不倫疑惑
虚偽(?)診断書による私的旅行疑惑
致命的な答弁能力の某大臣
遅刻を始め不行跡連発の委員長
ぶって、ぶってのお姫さま
団扇が文書に見える視界不良
大丈夫かなって思われる向きは多々います。
ムカシの女性議員様とは品行行状が違いすぎますなあ(苦笑)
もっとも、野郎議員もドッコイドッコイかもしれませんので、
この問題と結びつけて論じるべきことでもない。
面倒な議論をすれば、憲法14条に定める「平等原則」の理解と解釈である。
形式的平等(機会平等主義)と実質的平等(結果平等主義)のいずれの理念を採用すべきか?
ってことになるのですが、
どっちかに片寄できる議論でもなく、
何方かにどの程度軸足をのせるかという相対性な議論に過ぎない。
別にオスでもメスでもどっちでもいいのですよ。
能力と適性さえあれば・・・
資質に問題(不安)があるのに、その任につけるとろくな事にならない。
まあ、思うに・・・
疑いては用いるなかれ
用いては疑うなかれ
出典は清代の典拠集。
お手軽ハウツー本のたぐいのようですが、言い得て妙。
2015年4月16日木曜日
無責任言語体系
知りませんでした・・・は絶対に釈明時に口にしてはいけない言葉
失念しておりました・・・と言わねばならない。
知りませんと言えば、上から教えられていなかったということですね?と畳み掛けられる。
忘れるのは個人の責任であるが、教えていないのは組織の懈怠。
もっとも、組織(上司)防衛とはいえ、理不尽な自己犠牲を潔しとしないのであれば・・・
記憶に無い・・・と強弁すればいいが、火に油を注ぐ。
司馬遷の「孫子列伝」に曰く
約束明らかならず、申令熟せざるは、将の罪なり。
既に明らかにして法の如くならざるは、吏士の罪なりと。
乃ち左右の隊長を斬らんと欲す。
ルールを作り、部下に徹底していないのはトップの責任
トップがその責務を十分果たしているのに、順守実践しないのは部下の責任
と・・・中国二千年の統治の要諦は凄まじい。
ここにはトップの責任とか管理責任という美辞麗句はない。
政権と党のトップに罪科が及ぶことがないということは、けだし「伝統」なのである。
綸言汗の如し・・・出典はよく知りませんが、古い漢籍に違いない。
統治者は神聖不可侵・絶対無謬性を有する(有していなければならない)とされる。
その発言も絶対無誤謬性を要求されることになり、その担保としての「戒めの言葉」と解釈されている。
逆に、余計な発言が上から降りてくると鬱陶しいので、御身ご大切ですから無口でいてくださいって
臣下の悪知恵かもしれません。
そうはいっても暴言・失言はヒトザルの常。
発言に対して下々ごときが、疑念や異議を差し挟むことは権威に対する冒涜・不敬ってことになるため
かような「無責任言語体系」が不可欠なのである。
しかし、重箱の隅をつつくような瑣末な言葉尻を捕まえての「責任追及」は如何なものか?
議論すべき本質なら、句読点一つで激論も意味がありますが・・・
昨今の瑣末な話題は「エモーショナル」・・・苦笑
あのお嬢様学校の卒業生ならば使うだろうなあって膝を打つ言語空間の妙
芸能ネタ的にマスカラベチャベチャ厚化粧をとやかくいう気は全くないが、
確かに、一連の言動は理性的でも論理的でもなかったが、それはお互い様。
政党にとっては、候補者選びこそ「綸言」である。
候補者の質が落ちれば、議員様自体も劣化する。
なんだか、薄汚れた小悪党の所業ばかりが目につく。
2015年4月15日水曜日
永久欠番は永久なれ
事の始まりは・・・病魔と戦い去っていったゲーリックの偉業を称えるために始まった。
最初の永久欠番は「4」
なんかジーンときそうな・・そう涙腺を刺激しそうな言葉ですが、
その後の実際上の取り扱いを見れば、いささか興ざめ。
程度の差こそあれ、すべてのスポーツにおいて、各チームが「永久欠番」制度を有している。
背番号は、通常1ないし2桁。早晩、使用可能な番号がなくなり、
制度的に維持不能って気がしてきた。
ヤンキースでは、すでに一桁番号は、ジータの「2」しか残っていないし、
これも永久欠番になる可能性が高い。
チームにとってメモリアムということで称えるのを揶揄する気はないが、
何事にも希少性というものがあるだろう。
そういう意味で、業界全体の永久欠番(そういう制度があるのはMBLだけらしいが)の
重さというのは計り知れない。
4月15日は、彼のメモリアルデイ。
全員が、彼の背番号(42番)をつけて試合をする・・・アメリカンらしい趣向である。
彼は、記録的に偉大な選手ではないが、記憶的には彼以上の選手はいない。
MBL最初の黒人選手
非難と迫害を克服
英断を下したオーナーも偉いが・・・彼にとってはビジネスである
グリーン(ドル紙幣)にとっては、シロもクロもないって言い切れば身も蓋もないが・・・
彼を描いた映画が、封切りされたのは2年前
彼の偉大さを改めて認識した次第です。
なんとなれば、こんな駄作が全米興行成績第一位となった(笑)
こんな映画的に最高の素材なのだ。もうすこしなんとかならなかったのか?
日本の映画観客は正直です。入りは最悪だった模様
なもんで、話をかえて・・・
以前の会社での蝸牛庵の社員番号は「永久欠番」です(苦笑)
まあ、番号体系上決してダブらないだけのことですが・・・
しかし、まあ個人的な感傷を言えば
どんな立派な記念碑を建ててもらっても、
風雪の中で忘却はすすんでゆくもんです
ヒトは忘れられて、代わりがどんどん出てくる。
ここに生きていたワタシなんかだれも思い出さないだろう
でもね・・・全人類が 忘れても 見捨てても 宇宙の掌の中で 人は永久欠番なのです
↑ って「歌姫」は歌うのですよ。
2015年4月14日火曜日
お医者様はつらい・・・・のか
旧聞ですが、チェニジアのテロ事件の被害者に自衛隊の女性医官がいたようです。
国営放送の取材に問題があったとか、ちゃんと海外渡航の申請をしていなかったって・・・まあ興味のないことです。
この事件が契機かどうか知りませんが、退官されるそうです・・・・って週刊誌の見出し。
防衛医科大学校の出身だとおもいますが、偏差値70の名門学校。
在学中から特別国家公務員として、月給やボーナスを頂戴し、
あまつさえ学費はタダ。
しかし、中途の職場放棄が多いそうです。
任官後九年間はお礼奉公という
制度らしく、途中で足抜きをしようとすれば最大で五千万円くらいの返還請求義務を負うらしい。
それでも、中途任官拒否が後を絶たない。
曰く・・・・
偉くなれない。
確かに旧陸軍でも軍医総監でも中将どまり。海軍だと少将程度。
軍隊組織ではテクノクラートは粗末にされる。
造船技官の最高位も中将でした。
第一線の兵隊だけで組織が持っているわけじゃないが・・・戦争に負けた原因の一つでもあるが、
今だにあまり反省しているように見えない。
さらに・・・・
腕が磨けない。
ある意味で病人や怪我人が続出しない環境は、いいとも悪いとも・・・
まあ、一番健康で安全な国家組織です(笑)
ところでってところが本旨です。
防衛大学校でも、任官拒否組は学費返納という制度が最近できたらしい。
金額は三百万円くらいですからしれていると言えばしれてます。
が、職業選択の自由もあるわけで、女郎の証文縛りのような真似事は如何なものか。
それを言うなら、国公立大出身者はすべからくそうである。
多額の国費の補助を受けて学問と教養を身につけた以上、あとは社会人として
貢献し、社業に励み法人所得税納付で国家に還元するのが筋だろう。
国家への尽くし方は様々ですので、いささか首を傾げたくなる。
一流国立大の学生をかき集めている割に、納付税額の少ない企業は
いっちゃなんですが、国賊に等しい。
ふんだんに国費をかけた逸材を使いこなせていないわけですから、
その罪万死に値する。
因みに、医官ですが、九年間で返還額は等比級数的に減少するそうですので
くだんの女性医官も、十分払える金額らしい。
国費のお世話にならず、赤貧洗うがごとき我らが江戸遊学の青雲の時代を思うに
贅沢言うんじゃないって・・・・官尊民卑だなあ(笑)
2015年4月13日月曜日
赤煉瓦庁舎で思ったこと(後編)
日本の司法制度は基本的には「輸入の産物」であり、陪審員制度もその流れにある。
しかし、大日本帝国憲法の建前からすれば、四角四面からの導入は裁判権の侵害にあたるって
ことでハードルが高い。
しかし、それを突き崩したのが大正デモクラシーのムーブメント。
やんかかんやと妥協の産物で出来上がったのが日本の陪審員制度。
まあ、その妥協が不幸な歴史をたどることになった。
当時の法廷って面白い。
真ん中中央に一段高く裁判官というのは当たり前ですが、
下手に弁護士
上手に陪審員(12名です)
検事はと言えば・・・裁判長を横睨みに弁護士を見下ろす場所に位置します。
当時の司法権ってこういうものだったんですねえ。
陪審員は誰でもなれるものではなく・・・
30歳以上の日本国籍を有する男性
二年以上同一市町村内に居住
二年以上一定額以上の所得税を納付
読み書きができること
まあそんなものかって思いますが、第四号なんか見るに胸が苦しくなる。
陪審員裁判は刑事事件に限定されていた。
三年超の懲役(禁錮)事件は、陪審裁判の対象であるが、
被告人の希望で辞退できたらしい(させられたって可能性もあります)
実際上裁判所・検事とも面倒ですから、弁護士もそれを忖度し・・・
陪審裁判にすると裁判所や検事の心証を悪くしますよ
有罪となれば、陪審員に関わる費用は訴訟費用として被告人負担ですよ
陪審裁判の場合は控訴に一定の制約があり、不利ですよ
・・・って脅し透かしが多分にあったようです。
陪審員の答申に裁判官は拘束されない。
気に入らなければ、陪審員を入れ替えることが再三あったようです。
中途半端な制度導入はやらん方がマシですねえ。
陪審法の停止に関する法律を発効させる勅令(政令)を出さず、
従来の陪審法を施行させなかったのはむしろ「見識」と思うべきかもしれません。
レトロな資料室の窓の外には・・・散りぬる果ての名残の幻花が波打っているように見えています。
2015年4月12日日曜日
赤煉瓦庁舎で思ったこと(中編)
元々はTVドラマであった。
映画化され・・・まあ、嘘っぽいのですが「アメリカの正義」を象徴する作品となった
十二人の怒れる男(シドニー・ルメット監督)
オスカー賞からは見放されたが、GG賞やベルリン映画祭では高く評価されました。
白人の男性しか登場しないって、いまならジェンダー論者から上映忌避の標的にされそうです。
その後、ロシア映画としてリメイク(2007年)
これまた男性陪審員ばかりです(ロシアってそんな国なんだ)
チェチェン紛争の影(被告は戦争孤児だったかな?)なんかを背景に今風ですが、全く面白くない。
これが倭国にくると・・・「十二人の優しい日本人」
三谷幸喜の舞台劇を中原俊が映画化。
91年の作品ですから、女性陪審員が三名登場します。
この映画で初めて豊川悦司を見ました(・・プロ映画鑑賞家の眼力ですなあ。光ってましたよ)
真面目風なんだけど、やる気がなくて付和雷同的で・・・でも心底では思いやりと良識がある倭人たち
これが筒井康隆さんだと、いささか邪念が入ります。
かれの戯曲ですが・・・「十二人の浮かれる男」(80年ころの作品です)
日本で最初の陪審員裁判
選ばれた十二人(全員が男性です)は、ウキウキしちゃって、どうみても無罪な被告人を
これじゃ面白くないからって むりやり有罪に仕立て上げる・・・
論理と理性をもって無罪を主張する陪審員には、過去のすね傷を持ちだして脅し上げる有り様(笑)
問題はここから・・・筒井さんは知ってか知らずか
日本で「最初の・・・」って部分がウソ!
裁判員制度ではなく「陪審員制度」がかつての日本にあったのです。
委細は法務省の赤レンガ庁舎に資料が展示されています。
戦前に20年間ばかり施行されていましたが、戦時下だとか評判がイマイチとかって理由で
廃止されました。
これがまあ・・・実に面白くって(笑)
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昭和十八年法律第八十八号(陪審法ノ停止ニ関スル法律)
陪審法ハ其ノ施行ヲ停止ス
附 則
1 本法ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
2 本法ハ本法施行前陪審手続ニ依ル公判期日ノ定リタル事件ニ関シテハ之ヲ適用セズ
本法施行前其ノ裁判ノ確定シタル事件ニ関スル陪審法第四章又ハ第五章ノ規定ノ適用ニ付亦同ジ
3 陪審法ハ今次ノ戦争終了後再施行スルモノトシ其ノ期日ハ各条ニ付勅令ヲ以テ之ヲ定ム
4 前項ニ規定スルモノノ外陪審法ノ再施行ニ付必要ナル事項ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
---
第◯条って表記のない法律って初めて見ました。
たった本文12文字ですから日本で「一番短い法律」かもしれません。
国旗国歌法も、たった「2条」しかありませんが、句読点を除き18文字もあるのですよ。
ちょっと気になるのは附則3項です。
素直に読めば「戦争は終了」したはずですので、再施行しなければならないのですが、
そのためには「勅令」の公布が必要。
現在は「勅令」の制度がなくなりましたが、過去の勅令の改廃は政令で行われています。
制度がなくなったので「之ヲ定ム」ることができなくなったって理屈はない。
単に、内閣府あるいは法務省の任務懈怠なんでしょうか?
裁判員制度が始まる際(司法改革)に論議にならなかったのでしょうか?
2015年4月11日土曜日
赤煉瓦庁舎で思ったこと(前編)
実のところ、この駄日記の公開は、アップロードされた一週間後くらいのはずです。
なんだか、今年の櫻狩りは短かった。
暦の関係なのか、単に天候に恵まれなかったか・・・
もっとも、お乞食さん並みに地べたに筵紛いをひきつめて安酒と高カロリーな餌で
下品に飲めや歌えたって習慣は持ち合わせていない。
満開のリアル桜を愛でるのは下衆って喝破したのは兼好法師。
更に品位が上がれば、散りぬる果ての名残に 薄墨の空に波頭のような幻花をみてこそって・・・
上野公園、千鳥ヶ淵、隅田川、飛鳥山・・・いすれも悪くはないが、
実のところ、最高におすすめは「赤レンガ庁舎の前の数本の櫻」
この時期だけは、ちょっと朝の通勤お散歩ルートをかえて、毎朝鑑賞してます。
対面は警視庁ですが、この法務省の庁舎の中には、残念ながら入ったことはない。
明治初期創建以来震災戦火をくぐり抜けた名建築。
残念なことに外観の赤煉瓦壁と煉瓦床以外は平成の大修理によるレプリカだとか・・・
館内に「法務史料展示室」なるものがが一般公開されているらしい。
・・・ということで、そそくさと
実に面白い!(委細は明日に続きます)
2015年4月10日金曜日
パリは燃えて・・・・いればどうなったのでしょうか?
至情に愛するものとは最後は抱き合い心中。
無理心中とは迷惑な話ですが、当人には真剣そのものである。
似非芸術(愛好)家であるアドルフ・ヒトラーにとって、パリは掌中の珠であり、
奪われるくらいなら徹底破壊を・・・
厳命されたパリ防衛司令官は苦悩・・・したでしょうねえ。
パリ破壊なんて戦略的になんの意味もない。
歴史に汚名を残すだけ
しかし、抗命は・・・家族の収容所送りを意味する。
葛藤があったでしょうねえ
フォルカー・シュレンドルフ
70年台のジャーマンニューシネマの旗手。
その後はぱっとしませんが、最近第二次世界大戦中のエピソードを元にした作品が
チラホラと公開されています。
評論家は「独仏の和解」なんていいます。「仏独」でないところがいささかねえ・・・
パリよ永遠に
なんとも芋臭い邦題(苦笑)
原題は「Diplomatie」という舞台劇です。
心理劇というべきで、むしろそのままのほうがいい。
1944年8月の「パリ解放」は、欧州西部戦線での精華である。
匹敵するのはノルマンディー上陸くらいで、最高の映画素材。
プロ鑑賞家目線だと、ダンケルクとかのほうが面白いと思うのですがそれはさておき・・・
62年にノルマンディー上陸作戦をテーマに「史上最大の作戦」が公開。
大東映の忠臣蔵並みの世界的オールスターキャスト総揃え。
それに味をしめたのか同様に66年にも「パリは燃えているか」って製作公開されました。
原作のドキュメンタリーは、それなりに無名の市井人の「エピソード」なんかの積み重ねで
結構読ませるのですが、オールスターキャスト映画ともなれば・・・大味ですなあ(笑)
フランスの栄光や・・・かくまでもって感じです。
思えばただのレジスタンス映画です。
同じレジスタンス映画でも「鉄路の戦い」なんかの足元にも及ばないが・・・
多少邪念を含めて言えば、パリは燃えなかったもんでろくな芸術作品を残さなかった
燃えなかった理由は様々に語られます。
一方で
「パリ燃ゆ」・・・って本当に燃えちゃったドキュメンタリーがあるのです。
大佛次郎の傑作。
あのパリ・コミューンの時代とは、かくも先鋭にして鮮烈だったのです。
2015年4月9日木曜日
沢山あると嬉しいですが、実はそんなことでも・・・
昨日の続編です。
ちょっと気になって調べてみました。
これがまあ、実に面白いし、結構背景探査で楽しめました。
仏教系 儒教系 回教系 耶蘇教
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日本
韓国 ◯ ◯
台湾 ◯ ◯
中国
香港 ◯ ◯
タイ ◯
ネシア ◯ ◯ ◯
インド ◯ ◯ ◯
主要な宗教の開祖のお誕生日を「国家として祝祭日」制定をしているかどうかって話題です。
西洋の各国はクリスマスを祝日にする傾向は同じですが、
昨今のグローバル化の中で、それだけで済むのかどうかが問われそうです。
アメリカのように「メリークリスマス!」が禁句で「ハッピーホリデー!」と言い換え
普遍的な休日色を醸し出すことで軋轢をさけようって知恵もあります。
逆にキリスト教団体が反発し、軋轢が深まっているって言われる方もいます。
今後、多宗教国家らしく祝日を増やすのか、祭政分離を徹底するのか・・・選択が実に面白い。
共産中国は「宗教は阿片」だと考えるのか、宗教系の祝日はない。
しかし、二十四節や七十二候に従った季節の移り変わりの節目をお休みにすることを
廃絶するまでには至らなかった。
ロシアでは、ちゃんとギリシア正教のクリスマス祝日があるようですが、
共産ロシアの崩壊によるものかもしれません。
韓国は面白い。
本家以上の儒教国家を自負すると思っているのですが
その割に「孔子の生誕祭」は歯牙にかけない。
その意味で、儒教の本家は台湾に移転したようです。
さりながら、中国でもソフトパワーの世界展開の一環で孔子記念日を祝日にする動きがあるそうな(苦笑)
最後に倭国ですが・・・
世界に冠たる無宗教国家の面目躍如ってところですかねえ(笑)
2015年4月8日水曜日
本当は、今日は大切な日なのです
・・・といわれてもねえ。
なんとも流行らない「聖人の生誕日」
釈尊は(旧暦ですが)この日がお誕生日らしい。
お寺さんでは「灌仏会」を催しますが、いまいち盛り上がりに欠ける。
本当に在家仏教徒は不信心である。
イエス様と偉い違いなとりあつかい(苦笑)
イスラムでも、マホメッド(このような言い方はいまや一般的でないが)の
お誕生日を盛大に祝います。
預言者生誕祭というそうですが、ヒジュラ暦なもんで、一般的な暦法だと・・・よく知りません。
もっとも、原理主義的な一派では、コーランに書かれていない祝い事ということで無視するらしい。
釈尊ですが、実在性を疑うまでのことはないが、生没年が定まらない。
諸説紛々、百家争鳴のありさまで、主な推定生没年は・・・
紀元前624年 - 紀元前544年 : 南伝(上座部仏教)説
紀元前566年 - 紀元前486年 : 北伝「衆聖点記」説
紀元前463年 - 紀元前383年 : 中村元先生説
なんと二世紀あまりもブレがあると、お誕生日に至ってはまさに藪の中。
かような有り様ですから催し物だって、流行りはしないし、教義的にも興味をもたれない。
つまるところ、釈尊の教えって・・・よくわからない
というか、後世あまりに換骨奪胎というか擬制変異を繰り返してしまったために
原始仏教と現在の大乗仏教は似て非なるものになってしまった。
煎じ詰めれば簡単な話で・・・・
有りもしない(あるいはあるかどうかもわからない)来世(あの世)の話はしない。
大事なのは現世。
しかし、人生は苦であり、苦の根本的な原因は「無知による迷いと執着」
このような煩悩な境遇から脱却する方法が・・・
別に難行苦行なんかは必要ない。
正しい行動原理に基いて修行さえ行えば、煩悩をなくし、苦を克服できる。
八正道というそうですが・・・
正見 (正しく物事を見る事)
正思惟(正しく物事の道理を考える事)
正語 (真実のある正しい言葉を語る事)
正業 (間違った行いをしない事)
正命 (清浄な生活をする事)
正精進(正しく目的に向かって努力する事)
正念 (邪念を離れて正しい道を思念する事)
正定 (正しく精神を集中して安定させる事)
煎じ詰めれば・・・どってことないのですがねえ。
狂言綺語を弄しているうちはダメみたい(その程度はわかります)
2015年4月7日火曜日
ポーランドの「誤解」
なんだか近親感を覚える国です。
西洋の辺境ですが・・というか、辺境なるがゆえに西洋文化の精華が見られる。
興亡の歴史が切なく、その思いまでもが芸術を昇華する。
高名なピアニストが首相に就任したお国というのが、キャラを表す。
ショパンなんて言うに及ばず。彼だってピアノの詩人と呼ばれるよりも「愛国ピアニスト」なのです。
辻邦生さんの「樹の声 海の声」
白樺派の周辺にいたらしい一華族女性をモデルとした長編ですが、彼女の生涯の伴侶は
亡命ポーランド貴族の末裔だった。
激動の歴史を背景に「ポーランド映画」は、
不安
苦悩
絶望
とてもじゃないが、明るいってイメージは全くない。
そんな映画ばかりでも無かろうって思うのですが、なんせ体系的な「ポーランド映画史」本は
あるにはあるが、ちょっと手が出ない稀覯本。
定本を読まずしてポーランド映画をネタにするのはエチケット違反ですが、まあ固いことを言わず(笑)
ポーランド派と言われる一群の映画作家を中心に世上の評価は高い。
しかし、オスカーの外国語映画賞とポーランド映画の相性は良くない。
1963年以降毎年出品していますが、ノミネート(最終の五本に残ること)は、過去9回。
やっと、第87回で賞に輝きました。
カンヌやベルリン、ベネチアでも、最後のところで手が届かない。
やっぱり映画は優れて資本主義的な娯楽なのですよ。
一般大衆の支持があってなんぼの世界。
そんななか、稀な東京での休日です。
映画後進圏ではスクリーンにかかりようのないポーランド映画三昧。
イーダ
パブーシャの黒い瞳
ずっしりと胃が重くなった。
歴史に翻弄されるポーランド現代史の光と影の狭間で・・・って定番惹句は聞き飽きた。
ユダヤ人やジプシーを迫害したのは、ファシストとスターリニストだけじゃない。
ナチスにシンドラーがいたように、ポーランド人のアイヒマンもいたのです。
2015年4月6日月曜日
名月をとってくれろと泣く・・・のは子供の証明
欲しければくれてやってもいいが、
もらってもどうしたら良いか途方にくれるだけでしょう(嘲笑)
桜の起源は・・・ヒマラヤ近郊というのが定説
中国の学者は「中国で生まれ日本で花開いた・・・」といいます。
漢の武帝時代の領土はたしかにあの近くまであったかも・・・
韓国人は・・・なんでもかんでも「韓国起源説」ですから、論ずるに値しない。
何事も「氏より育ち」
文化の高みにまで育て上げた美意識、あるいはその美意識の体得が崇高なのである。
桜文化のデカダン的な美意識の極みは・・・
根元には屍体が埋まっているという発想
梶井基次郎の傑作(櫻の樹のしたには)に由来するが、特段彼だけの「美の発見」でもなかろう。
強欲な隣人に惨殺された愛犬は桜の根元に植えられ、
こぼれんばかりの爛漫とは「花咲翁」の説話にもあるとおりである。
我が家の愛犬・愛猫だって、代々天寿をまっとうすれば、
陋屋近くの川辺りの所有木(桜木)に根元に埋葬されている。
駄犬・駄猫のたぐいですので、そこいらを掘り返しても金銀小判が出てきた試しはないが
今どきには紅涙あるいは紅血を絞らんばかりな桜花が、天空を舞う。
実のところは、雨風にさらされて可哀想だから、せめては大樹の陰でって気持ちの現われ。
彼の作品をよく読めば・・・散文詩のような難解さであり、冒頭の一句だけが有名で
ちゃんと読まれているのかどうか疑わしい。
実のところ、中段辺りのこの部分こそがこの作品の肝だと思うのですが・・・
そこまで論じた向きは寡聞にして知らない。
--
水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、
薄羽蜉蝣がアフロディットのように生まれて来て、溪の空をめがけて舞い上がってゆくのが見えた。
彼らはそこで美しい結婚をするのだ。
溪の水が乾いた磧へ、小さい水溜を残している、
その水のなかだった。
思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮いているのだ。
それは何万匹とも数の知れない薄羽蜉蝣の屍体だったのだ。
隙間なく水の面を被っている、
彼らのかさなりあった翅が、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。
そこが、産卵を終わった彼らの墓場だったのだ。
胸が衝(つ)かれるような気がした。
墓場を発いて屍体を嗜む変質者のような残忍なよろこびを俺は味わった。
--
なるほどねえ・・・
ちょっと意味は違いますが、美は乱調にあって階調は偽りなのですよ。
2015年4月5日日曜日
職業に貴賎・・・「あり!」
改めて「司馬遷の史記」を読んでいます。
百三十篇、五十二万字あまりの超大作ですから安直に「七十編の列伝だけ」・・・(笑)
列伝とは「個人の伝記」の類いである。
一国の総理大臣格から市井の一市民まで・・・貴賎都鄙の区別なく
義と情をを重んじ
持てる能力を最大限に生かし
時節時流をうまく掴み
功名を天下と青史に轟かせたさまざまな人々。
人生と世間のすべてがこの中にある。
物事には順番があり、やっぱり「巻頭」というのは重要であり、
司馬遷の生き様の本音みたいなものがにじみ出る。
伯夷列伝・・・利よりも義を重んじた二人の隠人
管安(正確には日と安)列伝・・・覇者をサポートした政治家
老子韓非列伝・・・老荘思想の老子と法家の韓非子
が巻頭の三編
眼光紙背を見るに彼の人物哲学なり歴史に対するたち位置が見えてきます。
しかしながら・・・巻頭も大事だが「巻軸」も無視してはいけない。
悼尾の一振って巻頭同等に「大事」なのですよ。
史記百三十篇の巻尾を飾るのは「貨殖列伝」。
賎業ともいうべき「工人・商人」の類である。
列伝一編の分量はせいぜい短(中)編小説程度ですが、この伝はかなりの力作です。
広い国土全般を網羅して多種多様な商人・・・流通業者が登場します。
司馬遷は「老子が理想とする小国寡民国家」を否定はしないが、
理想の産物としてその実現には否定的。
採集経済のような理想郷でもなければ成り立たず、
正当な交換を主とする自由主義経済こそがリアリズムだと断じる。
財を愛する「我」とは、釈尊、王侯貴族に限らず万民共通である。
財を追求する方策(選んだ職業)に貴賎なんかはあろうはずがない。
財は能力あるところに集まり、不肖の手からは散逸する。
統治の妙とは
民衆の傾向のままに従うこと
利を餌に民衆を方向付けること
民衆を説教すること ・・・ってな手練手管の使い分け
愚策は・・・統制経済と国家独営の民業との張り合い
・・いいえて妙であるが、
これって、二千年前の著作物であって多くの人々に読みつがれてきたものですが、
本当にヒトザルは「歴史から学べない」
太史公司馬遷は、草葉の陰で泣いているだろうなあ
ちなみに、司馬遷は・・・
マネーゲーム(金銭貸付業)も否定してませんが、お金の使い方の巧拙には厳しい
褒められた方法でないお金の稼ぎ方にも同情的ですが、きれいなお金の使い方を賞賛します。
2015年4月4日土曜日
やっぱり泣かないで、凛として!
大方の不安をよそに、大好評のうちにかの「朝ドラ」が大団円。
有史以来初めての金髪のヒロインが良かったのか
ハイボールブームを背景にハードリカの小道具が受けたのか・・・
でも、やっぱりあの歌姫の佳作が良かったって思うのですよ。
朝っぱらからじっとり湿っぽいミユキブシなんかお呼びでもないのですが
その気になれば、
魔女
妖女
鬼女
狂女
驕女
笑女
・・・・なんでもできる才女ですから、時代の表徴を見事に切り取った
詩人の魂を見せつけてくれましたってそこまで思うのは、
大昔からのファンとかみゆきフリークくらいかもしれません。
嵐吹く大地
嵐吹く時代・・・であっても
泥に伏せるときにも 歌は聞こえ続ける
そこを超えておいで
くじけないでおいで ・・・・今時流行りませんが「疾風に勁草を知る」
しかし、この曲がリリースされた際に、歌姫は何を思ったのか・・・
違うなあ・・・(笑)
確信を以って思うところが有り、ももクロ提供曲をこの時期あえて
異例ながらカバーしたのですよって深読みまでするのは、もはや病的かも(苦笑)
男時の生き方だけが立派で正しい生き方じゃない。
逃げ道のない闘いの日々が
いつか人類を疲れさせてゆく
危ぶみながら見ぬふりの未来が
いつか本能をしび痺れさせてゆく
→ 24時間働くジャパニーズビジネスマンみたい(苦笑)
こんな約束を 僕たちはしていない
泣き虫な強い奴なんてのが いてもいいんじゃないか
→ 就業規則上はそうなんですが・・・
全然泣けなくて 苦しいのは誰ですか
全然今なら 泣いてもいいんだよ
→ 女々しいとはいわさない(・・キッパリ!)
2015年4月3日金曜日
ネーミングライツは誰のもの?
公共施設だとネーミングライツの売り出しは今や当たり前。
阪神間に「◯◯女学院小ホール」って命名した小洒落た音楽ホールがあるのです。
すぐ近くなんですが、とうの女子大のキャンパスに観客が押しかけてトラブルになったってありました。
ある意味人騒がせだったかもしれません。
関西の某市ですが、財政再建策として「市名をネーミングライツとして売りに出す」ってアイデアが出された。
さすがに賛否両論・・・・というか市民は呆れ果てて多分闇沙汰になったと思われます。
特段悪い話ってことでもないと思うのですが、数年(あるいは十年程度)で市名がコロコロ変わるのも
如何なものでしょうかねえ。
市町村名なんかは平成の大合併で大きく変貌し、結構しらない(あるいはふざけた)市名があります。
それを思えば、カネに変わるんだったらまあいいじゃないって思うかもしれません。
しかし、都道府県名ともなれば、憲法九条並みに「変えてはならないもの」って思い込みも有ります。
さりながら、知名度の低い県名なんか、さっさと捨ててもっといいものに変えればいいじゃない。
現行の県名は、明治政府時代の産物で長い日本の歴史からすれば寸の間である。
島根より出雲
滋賀より近江
はるかに知名度は高いし、ブランドイメージ(例:出雲大社、近江牛等)もあるし、
なんちゃって日本語として実に美しい。
島根県では聞き及んでいませんが、滋賀県議会では、かような動議だか意見が田舎議員から出たそうです。
意図はわかりません。
改名利権でも狙っているのでしょうか?
滋賀県の云われはよく知りませんは、律令時代の「志賀の都」にちなんだんでしょう。
栃木・群馬なんか関西人の土地感覚でいえば、真に失礼ながら十把一絡げですから、律令制の時代に立ち返り
上野と下野って命名するほうがエレガントですがねえ・・・・・
仮に変えるのであれば、セットでやってください。でないと意味がない。
何事も民意である。
県民が変えたいと思えば、いささか面倒ですが、特別法を制定して変更はできるようです。
煩わしい変更手続き(システム対応はまあしれてます)とか変更コストを考えると本当に効果があるのかって
疑問もないではないが、悠久の日本の歴史とともに生きながらえてきた古い地名に変えるのであれば
それはそれで意義のあること。
しかし、個別事情を言えば、複数の旧国名がひとつの県になったところなんぞは、
いまでも旧国意識があっていがみ合っているようですから、まず無理(笑)
奈良県なんかは「大和」という方がかっこよさそうですが、「平城」でナラと読ませることもできます。
万葉仮名風に「寧楽」って書くと実に素晴らしいが・・・・
和歌山県なんかも改名してはどうですかねえ。
当然ながら「紀州県」なんていいですよ。
和歌山は、イヌは可愛いが、ヒトが悪いって言われなくなる(笑)
2015年4月2日木曜日
赤門を目指すための高校選びとは?
開成高等学校
筑波大学附属駒場中・高等学校
灘高等学校
麻布中学校・高等学校
駒場東邦中学校・高等学校
桜蔭中学校・高等学校
聖光学院中学校・高等学校
渋谷教育学園幕張中学校・高等学校
海城高等学校
東京学芸大学附属高等学校
あるブログを読んでまして・・・なるほどって。
今年のランキングです。
言わずと知れた「赤門大学合格者ランキングベストテン」
一見してわかることですが・・・
名門と言われる常連校揃いと言ってしまえばそれまでですし、
別に赤門大学に入学することが人生の到達点でもなく、赤門以外でも人生の成功者はいくらでもいますが
やはり「一定の集団における期待値の具現」であることは確か。
眼光紙背して思うべきことは
・男女別学高
・中高一貫学校
・国立あるいは私立校 ・・・だらけ
さらに「組員教師」も影響している可能性はあるのですが、定量数値がないのであえて触れない。
只々言えることは「戦後学校制度の基本フレーム」ではエリート(赤門卒業生程度はエリートだとは思わないが)は
育たないってことは確からしい。
三年ではなく六年かけてじっくり子供を育てるとか
文科省の軛から比較的自由であるほうがよいことだってのは
まあ、社会常識的にはそうだと思うのですが・・・
ジェンダーフリー論者が聞けば、怒髪天をつくような話であるが、
共学校って、少なくとも中高時代においては利点とはなにか?いささか疑問が残る。
メリット・デメリット論をサーチしても、ろくな意見がない。
かの「ブログの筆者」によればですが・・・・(かなり換骨奪胎しますよ)
男女間に優劣があるわけではないが、集団としての男女には理由は定かではないが「差異」は存在する。
集団(・・組織といってもいいが)のアクティビティは、
男子は「命令」により、女子は「共感」により行われるらしい。
組織はそれぞれ「たて型」であり、「横型」となる。
前者はついては激しく同意しますが、
後者は体感できないものですが、外から見てるとそんなもんかって。
一般論的に女性が指導者(指揮者)の適性がないのはそういうことなのです。
多くの場合は、組織は「タテ型上意下達」でできてますから・・・
さて・・・普通は以上をマクラに「ジェンダー論者」を粉砕する過激論を展開すると思うでしょうが
そんな火中の栗を拾うような真似は他人様にお願いする(笑)
少なくとも・・・
男女別学は憲法の男女平等原則に違反するとかってお馬鹿な裁判をやるような真似は
やめた方がいい。
国費の無駄使いだし、NET上で性癖が変態だと揶揄されるのがオチだ。
2015年4月1日水曜日
今日は「四月サバ」の日です。
四月の魚
万愚節を仏蘭西では斯様に言うらしい。
この季節ですから、さかなとは「鯖」のこと。
鯖にちなんだお菓子を食べたり、嘘をついても許される日なので、
お魚にちなんだ悪戯をしたりもするそうであるが、知人のフランス人に聞くに相当に廃れ気味らしい。
しかし「サバを読む」って言葉があるくらいだ。
どうも、語源に関係があるのかも・・・って、実のところはまったくなさそう(苦笑)
通常「数を誤魔化すこと」をサバ読みっていう。
語感からして、悪い意味のようですが、
様々な由来を読み比べてもどうもなるほどってものはない。
というか、NETの世界では、原典をちゃんと確認をせずに孫引きを繰り返し、
いつの間にか、俗説が真実に化けてしまうので、多数意見ほど危ないものはない。
三度炊く 飯さえ硬し 軟らかし 思うままには ならぬ世の中
魯山人&三度炊く で検索すれば、ざっと一万件程度ヒット
ネット上では、魯山人作が「定着」しちゃってるのでしょうか?
西新宿にある常円寺の歌碑(新宿区指定史跡)によれば・・・
文政二年に建てられた大田南畝の筆になる江戸時代中期の狂歌師「便々館湖鯉鮒」を刻んだ碑に
この狂歌が刻まれている。
ちゃんと自分の目で確認しました(きっぱり!)
この狂歌って、彼の快作なんだなあ(笑)
まあ、世の中メクラが千人、目明きが数人ってことですよ。
・・・もっとも、 三度炊く+便々館で検索すれば・・・こっちのほうがよくヒットする。
世の中、目明きの方が多いか(笑)
話を戻して・・・「サバを読む」って、賤商の悪しき商慣習のように思われては迷惑至極である。
明石散人(・・なる正体不明の博覧強記人)によれば・・・
腐りやすいサバに鑑み、注文数よりも多めに納入するという当時の鮮魚商人のうるわしい商慣習に
由来するとされる。
あるいは・・・
若狭であがった鯖を京都までの「鯖街道」を行く間に塩が利いて、
京都に着いた時に丁度良い塩梅になっているように塩をふることを「鯖を読む」という
後者は水上勉先生が言ったことらしいが、出典を思い出せないもんで
割り引いて読んでおいてください。
万愚節を仏蘭西では斯様に言うらしい。
この季節ですから、さかなとは「鯖」のこと。
鯖にちなんだお菓子を食べたり、嘘をついても許される日なので、
お魚にちなんだ悪戯をしたりもするそうであるが、知人のフランス人に聞くに相当に廃れ気味らしい。
しかし「サバを読む」って言葉があるくらいだ。
どうも、語源に関係があるのかも・・・って、実のところはまったくなさそう(苦笑)
通常「数を誤魔化すこと」をサバ読みっていう。
語感からして、悪い意味のようですが、
様々な由来を読み比べてもどうもなるほどってものはない。
というか、NETの世界では、原典をちゃんと確認をせずに孫引きを繰り返し、
いつの間にか、俗説が真実に化けてしまうので、多数意見ほど危ないものはない。
三度炊く 飯さえ硬し 軟らかし 思うままには ならぬ世の中
魯山人&三度炊く で検索すれば、ざっと一万件程度ヒット
ネット上では、魯山人作が「定着」しちゃってるのでしょうか?
西新宿にある常円寺の歌碑(新宿区指定史跡)によれば・・・
文政二年に建てられた大田南畝の筆になる江戸時代中期の狂歌師「便々館湖鯉鮒」を刻んだ碑に
この狂歌が刻まれている。
ちゃんと自分の目で確認しました(きっぱり!)
この狂歌って、彼の快作なんだなあ(笑)
まあ、世の中メクラが千人、目明きが数人ってことですよ。
・・・もっとも、 三度炊く+便々館で検索すれば・・・こっちのほうがよくヒットする。
世の中、目明きの方が多いか(笑)
話を戻して・・・「サバを読む」って、賤商の悪しき商慣習のように思われては迷惑至極である。
明石散人(・・なる正体不明の博覧強記人)によれば・・・
腐りやすいサバに鑑み、注文数よりも多めに納入するという当時の鮮魚商人のうるわしい商慣習に
由来するとされる。
あるいは・・・
若狭であがった鯖を京都までの「鯖街道」を行く間に塩が利いて、
京都に着いた時に丁度良い塩梅になっているように塩をふることを「鯖を読む」という
後者は水上勉先生が言ったことらしいが、出典を思い出せないもんで
割り引いて読んでおいてください。