2015年2月26日木曜日
此の世をば ほなおいとまを センコウの 煙とともに ハイ さようなら
吾未だ生を知らず、況や死・・・・
孔子さまのお言葉
解釈は様々。
リアリストのチャイニーズですと「現世利益」しか興味がないから、
死後の世界なんか話題にしても宗教として受けるはずがない。
しかし、涅槃図を見るに・・・
釈尊の死に場面では、山川草木生きとし生けるもの全てがまわりに集まり
嘆き悲しむではないか?
苦の根源である輪廻からの解放の様なのに、悲しんじゃいけませんよね(苦笑)
斉の国の桓公(戦国の五覇)は、亡くなったあとで跡目闘いの結果、
いつまでもお葬式を出してもらえず、蛆虫だらけになったらしいが、
これはこれで末期としては見苦しい。
倭人は、悲しんでいるかどうかは知らないが「誰かに看取られながら死んでゆく」確率が
高いらしい。つまり病院での死亡率が高い。
自宅死の多い西洋と一線を画す。
どうも末期医療についての立ち位置の差が大きく影響しているようです。
さて、最近話題になるのが・・・
孤独死(イメージが悪いですなあ)
孤立死(これまた同様)
自立死(こう言えば、主体性を感じます)
尊厳死(ここまでくれば崇高な感じさえする)
安楽死(なんか評価しにくい・・・言葉)
どうも、倭人は「涅槃図」の呪縛の中で、一人で死んでゆくことをネガティブに捉えるようだ。
誰かに看取られながらって、そんなにいいもんですかねえ?
一人で死んでゆくこととどんだけの違いのあるのでしょうか?
しかし、ヒトザルは社会的存在なもんで一人では行きてゆけないが、
唯一「死ぬときだけは独り」である。
三途の川を渡る際には、最初の恋人が手を引いてくれるって・・・単なる中世説話である。
なんせ、普通一度しか経験できないことだから、どっちがより自分の人生の幕引き場面に
相応しいか・・・よく考えておこう。
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