西洋人は聴覚障碍民族ではなかろうか?
リュクサンブールだって、、緯度は高いが蝉はいるだろう。
古き良き日本映画の夏の風景は
成長した早苗
青い空にかなとこ雲
風に揺れる夏木立
そして、、、木漏れ日のなかには蝉の音
しかし、ついど西洋の映画で蝉の声を聞いた事がない。
和歌と俳諧では美學の視点が違うように思えます。
しずかさや岩に染み入る 蝉の声(芭蕉 奥の細道)
古来より蝉の種類はなにか?の論争が姦しい。
立石寺を芭蕉が訪れた時期からしてツクツクボウシではないし、この蝉の音を聞く八月後半は「まだ夏休みの宿題が残ってるなあ」って事しか連想出来ない。
アタシは蜩だと思うのだが、すぐれて少数派のようです。しかし、多数派のアブラゼミやニイニイゼミってどうしてそんな発想になるのかなあ?
でも皆さん実景だという事で「幻聴」という解釈はさすがにない。でもこの旅日記には結構創作がおおいのですよ。夏木立木漏れ日の静寂の中に幻聴を聴いた、、、という方が詩情豊かだが、近代俳句は「写実」ですから、こんな事を口走れば句界から追放されかねない(^^)
一方で和歌の世界
蝉からイメージされるのは、抜け殻としてこの世の虚しさを暗喩した「空蝉」とか
蝉の翅から薄い夏衣を連想し、縁語としての衣の袖、袖に夏の朝露や露とまごう我が涙.....ってお決まりのパターン。
数少ない蝉の音ともなれば、やはり騒がしいとかけたたましいのは歌題にはならない。
夕立の雲も
とまらぬ夏の日の かたぶく山に
蜩の声(新古今 夏部 式子内親王)
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