最初から意図したものではなかったと思うが、敗戦詔勅のラジオ放送の日がたまたま祖霊信仰のその日に合致するという印象的な一日。正確には九月二日の降伏文書調印日のはずだが、敗戦だと露骨に認めたくない気持ちありあり、、、別にどっちでも負けた事にはかわりない。
でも次は、第三帝国の故事にならい、コンピエーヌの森じゃなくてあの戦艦ミズーリの艦上でやってやる。
わざわざ老朽艦を動かすのは大変だろうからハワイまで出向いても構わない程度の心遣いは、敗者への温情(^^)
我が寒村陋屋界隈は、ムラの古刹の住職が横着というか寺の掛け持ちの都合でお盆の行事が世間より少し早い。
一介の坊主の都合で地獄の釜の開閉時間や、送迎の牛や馬さんが予定変更をしてくれるとは思えないが、その程度の行事だし、融通無碍は大乗仏教の得意技。
日取りは兎も角も、地獄ならいざ知らず密厳国土から穢土みたいな所にご先祖さまがお出ましになる訳がない(我が家は大日如来さま信仰ですから、おわしますのは極楽浄土でなく密厳国土です)
信仰は屁理屈でないから、所作万端慣習を尊重し、お布施もはずみ...この程度が積善というなら安いもの。
仏教以外の世界宗教は、先祖供養をどうやってるだろう?
神に押し付けて其れで終わりなら楽!って気もしますが、無意味に散華したとしか思いようのない英霊に毎年想いをはせるって実に大事な事で、神仏に肩代わりしてもらうような事ではない。
最大の供養は「過去の贖罪ではなく、現在と未来への誓い」だろう。
現在や未来に愚かな過ちを繰り返すようなことがあれば、それこそ万死に値しますが、当事者でもない過去の反省を今になって迫られても困るし責任の取りようがない。
でも「愚かな過ち」ってなんだっけ?
孫子のいう通り「戦わずして勝つ事」が上策なんだから、戦う事自体がまず「過ち」である事はいうまでもない。
しかし、戦うしか策がないならば「必ず勝つ事」が次策であり、負ける戦いをやる事が即ち「愚策」
あの、、、「過ちを繰り返しませぬ」と誓うとはそういうことだし、歴史を学ぶ意義もそこにある。
その万感の思いこそがまずもっての供養って事です。
過去と現在の終わりのない対話(E・H・カー)を絶えず繰り返すのは大変ですから、年に一度のこの時くらいはしんみり、じっくりと














