2014年7月31日木曜日

ゴジラの「正義」


ゴジラ映画が大人気だそうです・・・・
カノン(正典)とされる作品は、日米で30本。
個人的には、ただのお子様向きの怪獣激闘映画にすぎないのですが、
最新作は全世界で大ヒット。
なんと早々と「続編」の企画まで噂されます。

 

初作は1954年。
その時のゴジラは「メタファー」であった。


戦争の惨禍
核(兵器)への恐怖
科学技術の不信


ビキニ環礁での核実験での被曝(日本にとっては三度目というセンセーショナルさ)が
契機となったことは容易に想像できるし、その対面に「原水爆禁止運動」なるものが
草の根的に大運動になったこともすごく当然の話しである。
ところで、純粋・・といってもナイーブという意味合いですが、
同じ核でもきれいな核・汚い核、あるいは正義の核・不義の核があるというような
党派性を持ち込んだものだから、国民運動は一気におかしくなり、現代に至っている。
左翼なるあるいは市民なる運動家が「反核」をどういう意図で活動しているか・・今も昔も変わらないってことを
暗示します。
 

ゴジラは、原子力の産物であり、破壊神であった。
しかし、その後は「正義の破壊神=ゴジラと不義の怪獣の激闘」というスタイルが
出来上がったが、これまた現実の世界の投影像だと思えば、あながちおかしいことでもない。
初回から還暦の時間を過ぎ、最新作も初心に帰った(・・・と思ったのですが)
モチーフとしては・・・

原発事故
立入禁止区域
津波

なんて、思い出したくもないイメージを散乱させつつ、
相変わらずの「正義対不義の激闘映画」となってしまった。
救いは、通常兵器で倒される1998年のハリウッド版よりはましということくらいで、
当然のように「正義は勝ち」さらに続編を予想させます。

98年:NY
14年:SF(それから、ラスベガス?)

と全米屈指の大都市が破壊されますが、次はどこかなあ?

どこか第三国の大都会でも破壊させるって図式が面白いのですがねえ
近日公開の「トランスフォーマー」は、中国資本がはいったもんで
やたらと中国名所が登場するらしい(笑)







2014年7月30日水曜日

危険かどうかもわからないものが一番危険


なんちゃって「自炊派」です。
別に板前並みの腕があるわけでもないが、
単純に「危険かどうかもわからないものが一番危険」だと思っているのが理由。
表示を疑えばきりがないのですが、
多少の嘘はあっても、全くの嘘ではなかろうと思うのが、長年の勘


不思議なことなのですが、外食産業はJAS法の適用を受けません。
つまり、スーパーと違って「食材の成分を降順で表示しなくともいい」ってこと。
逆に「してはならない」ってことではないので、
良心的なお店や良心的でもなくてもある種の意図性をもって表示する場合もあります
危険な喰い物に手を出したくないのならば、
怪しげな(少なくとも良心的に食材表示しない)お店にはいかないことです。
安さだけが取り柄のお店にもいかないことです。

  
日本のカロリーベースの食料自給率は40%以下とされますが、
目に触れる「原産地表示」には圧倒的に・・・
少なくともスーパーなんかだと40%以上「国産」であるように見えます。
つまり、表示義務のない世界に輸入品が輸入品と認識させない形で
大量に出まわっていることを暗示します。
別に輸入品がすべからく危険だということではないが、安心や安全性の表明保証を
行っていないのが「危険と同意義」だと言っているに過ぎない。

 

外食産業がおかしくなったのはそう昔のことではない。
そもそも、外食の魅力は・・・・


プロの腕が味わえる
家庭でできないものが味わえる


つまり・・・「ハレの時」だった。
この外食本来の魅力ではなく・・・


家で作るより安いから
便利で手間かからないから


が、外食の動機だとすれば・・・その期待にのみ積極的に答えているのであれば
それはまっとうな外食産業の死滅に違いない。
家で作るより安いことは通常ありえない。
あるとすれば、異様に廉価な食材を素人が加工(調理)しているに違いない。
別に死にはしないだろうし、食の安全は担保されている。
思えば「食の安全」とは便利な概念である。
国家が不安全と法律で定義した場合以外は安全であり
いわゆる「食の安心」とは本来並列的に語られるべきものでもない。



最後は「金目」でしょう。
いい言葉です。
金で買えるものは金で買えばいいのですよ。
毎日三食喰っても年間で千食値度。
あとどんだけ御まんまが食べられるかと思えば、
過度な贅沢はともかくとして喰い物に銭を惜しむのはどうかしているって結論にしかならない。



今晩は「鱧尽くし」なんですよ(笑)

まともな食材を
腕の良い板前さんが
目の前で包丁をふるうのを鑑賞しながら
般若湯(・・・これも御仏の功徳)

ハレの時とはそういうものです。

2014年7月29日火曜日

SNS上のお料理写真は真実を語るのか・・・?

写真は味の真実を語らない・・・と思うので・・・・・
理由は、素材と調理と盛付けの総合化、あるいは統合化が料理。
言葉はともかく、写真はそこまで表現しようもない。
そこで、無謀にも、成功しているかどうか知らないが狂言綺語で語らしめよう(笑)


拙宅の近くの料理屋さん。
もう三十年は続いている地元セレブらしき御用達。
カウンター、テーブル席五卓と和室とこじんまりと簡素に・・・・



前菜は、蓴菜海胆海老鶉卵秋葵ゼリー

蓴菜とは、秋田の郷土料理で有名だが、
食材の品位からすれば、洛北深泥池が最良とされる・・とは魯山人の言い草
寒天質な歯応えがたまらない。
上方で「ジュンサイな奴」といえば、掴み所のないええ加減な・・・というニュアンス。
しかし、我が陋屋あたりだと、質朴で純な良い子とされる。
今日の味わいからすれば、後者が的を得ている。



梅肉添え鱧椀
 
上方の夏は鰻ではなく鱧。
酢味噌でもいいが、夏の暑さ凌ぎには、梅肉の酸っぱさが似つかわしい。
懐石料理では椀方のステータスが高いそうであるが、
あるかなきかの微妙な味わいが、腕というものだろう。



無花果豆腐ソースかけ
鰻サラダ

先付、お吸物の次は、通常は刺身ですが、なんだか奇妙な二品
仕入れの関係だか、毎度うるさい客にたまには意趣返しの鬼面人を驚かすつもりか・・・
無花果レシピは珍しくはないが、胡麻合えの裏漉し豆腐をムースにしたのは新基軸。
大昔、祇園の料理屋さんで、無花果椀には、驚愕したが
どうも最近は感動が薄い・・・これは凄い。

鰻は、普通に蒲焼です。
土用の頃なんであしらってみましたってことなんでしょう。



刺身・・鯛鮃烏賊

やっと、お刺身。
夏らしく白身ばかりで・・・
二切れ単位ですが、燗酒を吟味している間に、
ケメコさまが、掠め取ってしまったので、一切れしか食べてません・・・・涙



里芋揚げ出し

セオリー通り揚げ物ですが、このお店のご自慢の逸品。
それ以外にお餅、蕨餅のチョイスも出来ます。
なもんで、ケメコさまは、里芋、蝸牛庵は、蕨餅
やっぱり、里芋のほうがお味が涼やか。



八寸

懐石に用いる器の一つで、盆の大きさをもって八寸といい、その盆にもった料理を転じてそういう。
酒の肴になる料理を数種、少量ずつ一皿に取り合わせることがおおく「口取り」ということもある。
八種類ねえじゃねえか!ってお運びさんに毒つくのは、知性も教養もない証拠。
そういう野暮はどっかのチキンでも食ってればいい。


八幡巻
玉蜀黍
床節
鮃鮨
鬼灯

このお店も種類はこんだけです。



蒸し物・・・茄子湯葉餡掛け

ここいらで、ちょっと身体を暖めるものが・・・って思った矢先
憎いわねえ



焼き物・・播磨産鮎焼き

腕のいい料理人の常なんでしょうが、味付けをトコトン抑えきって
微かに、五基本味・・・甘味、酸味、塩味、苦味、うま味を感じさせるってことらしい。
鮎は今が季節。
しかし、川苔をしこたま喰らい、その川の味に馴染んだ癖のあるほうが当たり外れは多いが、
通の味とも言うらしい。
塩味と鮎固有の臭みのギリギリの調和を狙ってます。
珍しく、骨抜きに成功しました!食い方が上手いのでなく、素材がいいから(苦笑)



最後は、ご飯、香の物、果物、甘味
ご飯はお代わり自在ということなので・・・・


居候 三杯目には そっとだし



お後がよろしいようで・・・・(笑)



.



・・・・・

2014年7月28日月曜日

骨まで愛して・・・・



都会の一等地に広大な墓地なんて、土地有効活用性からすれば不経済極まりない
・・・ってことを「楡家の人びと」では主人公の義父が、議会で力説する。
お江戸は、何故か山手線の内側にいくつもの広大な墓地を有しており、
これも、ロラン・バルトいうところの「表徴の帝国」。


お墓は本来的には「個人墓」あるいは「夫婦墓」
昔は当然個人墓だったし、
家制度がなくなってから当然のように
先祖代々の墓とかなんとか家乃墓とは・・・「論理矛盾」である。

しかし、いまや個人墓(夫婦墓)のほうが珍しい・・・
一番は場所確保も含めたコスト面だろうが、慰霊する方の負担もあるのだろう。
お墓についての一番精緻な立論によれば・・・
墓制とは以下の分類によるとのことを

1)遺体の処理形態(遺体の埋葬か遺骨の納置か)
2)処理方法(埋葬か非埋葬か)
3)二次的装置(石塔の建立か非建立か)

現在一般的な「お墓」は「遺骨・非埋葬・石塔建立型」であるり、江戸時代頃からしい。
しかし、個人墓か家族墓のルーツについては定かではないが、明治以降の「家制度」の
確立が主因みたいであって、
家制度が「封建的」というのであれば、江戸時代は、むしろ「民主的」だったのだ。


死んでからも(義父義母と)一緒のお墓に入るのは嫌!って
だから・・いっそのこと散骨でもってあまりに論理の飛躍だ。
死後の世界も夫婦仲良くならば、夫婦墓だし、
あの世は別々よっていうならば個人墓。
最近の墓屋さんは、積極的に夫婦墓とか個人墓の売り込みをやっているが、
これはまあ「需要拡大」の戦術でしょう。
だって「先祖代々」だと、買い替え需要はあっても新規需要があろうはずがない。
最近は、少子化の影響で・・・「御両家の墓」まであるって(苦笑)


蝸牛庵の拙宅はとんでもない田舎なもんで、当然に菩提寺があり、
ドミノ倒しみたいに、夫婦墓がざっと二三十個並んでます。
たいそうな家柄でもなかったのか、当時の慣習か
超ご先祖様のお墓は、ちっぽけなものです。
近年ですかねえ・・・あたりを睥睨するような大仰な大きさになったのは・・・
しかし、菩提寺も墓所が手狭になり、亡父の代に、別の名刹に墓所を求めた
地の利が悪い場所のなので、墓参が大変なんですが、
どうも最近は、青山墓地とまではいきませんが、超人気墓所。
亡父が永代使用権をえた場所はいまや「墓所売りませんか・・・〇〇◯◯万円以上」
・・・なんて勧誘がしつこいくらい。
祭祀財産は、相続税非課税ですので、
当時、もっと買い占めておけば、究極の税対策だったのですが(苦笑)
そこそこの広さで、祖父母の夫婦墓・供養塔を建てて、
両親のお墓予定のスペースを開けている。


亡父の三回忌をひかえた頃、そろそろお墓でも・・・って時に
母親とちょっとした議論。
めずらしくも、夫婦墓よりも家族墓って言い出した。
特段こだわらないし、ケメコさんも賛成するし・・・
まあ、そういこことかって、墓所を一新してしまった。

家族墓・供養塔・墓誌標なんかをあしらって・・・まあこんなもんか
将来誰が供養するのか知らないし、期待もしないが、
なんかあれば売り飛ばして、何年かは遊んで暮らせばいい(笑)




で、どうだっていうのよ?
法然聖人がおっしゃるように、死ねば鴨川の魚の餌が功徳ってもんですから
お墓なんかどうでもいいじゃない。
最近のコインロッカー墓なんかに入れられると、死んでも死にきれませんよ
最近の霊園なんか永代供養っていいながら33年とか50年で無縁となる。


そもそも生きた証をお墓に求めるのは王道ではない。

佐藤一斎先生曰く

少くして学べば壮にして為すことあり
壮にして学べば老いて衰えず
老にして学べば死して朽ちず
 




2014年7月27日日曜日

だまらっしゃい!この桜吹雪が・・・・


 
喉元過ぎれば熱さを忘れる・・・のは世の常だし、
マスコミが騒がないものは、事件でもなんでもない。

世界的なファストフードチェーンの原料に「不都合」があったようです。
中国のマスコミのスクープ映像!
すでに「過去事件」になりつつありますが・・・


どこが一体「スクープ」なのか?
通常の撮影取材にしか見えません。
撮影したのは、国営マスコミでしょうか
なにか「意図」を感じませます。
 
しかし、従業員の発言が秀逸・・・・「死ななきゃ安全である!」
多分、本音なんでしょうが、過度に安全と安心を要求するサイドも多少は考えるべきかもしれない。
安全の確保にはコストはかかるし、安心ともなれば更なるコストが必要である。
安全とは、法定品質保持の意味で使われます。
これは、法律である以上守るのが当然であり、コスト云々のレベルで論じてはならない。
しかし、安心は、少しちがう・・・・


毒入り餃子事件がありました。
生命身体にも被害が発生しました。
あの中国産加工食品に対するパニックのようなバッシングはなんだったんでしょう。
あの食品加工会社は、巨大な工場で、右端の餃子工場で農薬を散布しても、
左端の豚饅工場には関係ない話・・・と考えるのが、理性的であり、
実際に検査でも異常値が発生しなければ「ノープロブレム」と結論つけるのが論理的なのですが
実際に起きたことは、この食品工場で製造させたものは、すべからく「不安である」から回収廃棄せよ!


かような態度を歴史的には「魔女狩り」というのですが、あの時は中国産というだけで魔女扱いの憂き目を見た。
要求する以上は、そのコストの負担する覚悟がいると思うのですが・・・
本気度が問われますが、相変わらず中国産の冷凍食品が店頭に並んでいます。
あの事件以来「安心度が高くなった証拠」はないと思いますし、今回の事件でそれが実証された。


江戸中の町方(消費者)が不安がっている
商品は、全て廃棄するので、仕入元としてその損害を負担せよ!

ちょっとお待ちください。
手前どもは、契約に本旨に従った商品を納めさせていただきました。
この通り、検査成績書も合格です。
にもかかわらず、ご無体な・・・


備前屋やさんは、左衛門尉様にお恐れながらと訴えたのですが、
さあ「お裁き」はどうなったのでしょうか?
裁判所もムードに流されますし、いろんなお立場の方もいます。
商人の分際でお武家に楯突いて、その後うまくいった試しもないし・・・


法律的には、安全は明らかに法益であるが、安心まで法益と認めるのか・・・という論点整理になります。
安心まで法益とは考えないというのであれば、自分の商品の生産ラインの品質管理を徹底的に行えばすみます。
万一にも管理に齟齬が有り、安全を損なえば、自分たちが至らないということで坊主になろうが小指を詰めようが
自己責任ということで納得はできますが・・・

一方で安心まで法益と言われれば・・・・一体どこまで何をすればいいのか?
偶発的に発生する事故に対する無過失責任として甘受せよってことにしかなりません。
対応策は2つですね

 
コントロール出来ないリスクからは逃避する
何もせずに、事故が起きればその時はその時

 
どちらにせよ、国益や消費者益になることではない。


 
今回の事件では日本の食品安全法制に抵触するようなものではない。
従って「安全」に関する問題ではない
実際上、消費者の生命身体に事故は発生していない。
ひたすら「安心」を裏切った・欺いたということであり、多額の回収廃棄コストの負担を余儀なくされる。


最終的に誰が負担するのでしょうか?
このファストフード店は、中国の加工工場と直接取引をしているわけではなく、
輸入商社とか中間問屋が売買に介在していると思われます。
従って、直接の取引関係にない加工会社を債務不履行で訴えるわけにはいかないし、
仮に不法行為を理由に中国の裁判所で争ってもいいのですが、司法権が確立していない国でそんな無謀な・・・(笑)
順番に仕入先を叩いていくのでしょうか?
でも、仕入先も抗弁するでしょう・・・
取引の当事者であっても品質管理責任まで負担しているつもりはないし、安心は法益ではない!


不毛の論争です
信用とか信頼とかいう言葉があります。
語義の通り、信じて用いるか?信じる頼るか?ということである。
心底信じられなければ、辞めることです。
様々な利便性を言われますが、消費者が買わないって判断すれば、根底が瓦解する。
不安だけども安いから・・・って考える向きがマジョリティな間は、なにも変化しないのです。























2014年7月26日土曜日

未解決の秩序というカオス

二人一役とか一人二役とか、好奇心や遊び心のうちは楽しいだろうが、
自分そっくりなヒトザルが本当にいるとなれば結構「恐怖」かも知れない。
PM2,5で淀んだような無機的なトロントの街に、全く同じ容貌のヒトザルがいた。
鬱っぽい大学の歴史の准教授とチョトワル系な脇役専門の俳優
交点や接点がなければ、知らずに済んだことを知ってしまった。

原作は、ポルトガルのサラマーゴの小説。
現代文学には知見がなく、ノーベル賞作家ということも初めて知ったが、「白の闇」が映画化されたのは知っている。
失明することは絶望であるが、全員が失明した後で一人だけ眼が見えることも恐怖である。
見たいくないものを一人だけ見えることは嬉しいことではない。
カサンドラ一人が、炎上するトロイアの明日を予感し、発狂した。
現代文学にありげな「傾向的な寓話仕立て」の作品が多そう・・・という印象以外何も予備知識のない映画鑑賞。





大学教師には、破綻寸前の恋人がいる
俳優には、妊婦の妻が・・・仲睦まじいとは思いにくい。
ちょっとしたことより、男たちは二人二役を演じてしまうことになる。
オンナの直感は鋭いって・・・月並みなことではなく、予定調和的に正体がバレ・・・・事態はカタストロフィーに至る。
違うなあ・・・予定調和的に振り出しに戻るのだ。


そもそも、本当に二人二役だったのか?
もしかして、二人一役ではなかったのか?
ちがうなあ、一人二役が正しいのかもしれない!


寓話映画とか不条理劇とは、観客を不安な状態につき放ち、自分自身でその状態から離脱することを求める。
離脱できた時のカタルシスを感じ取りたければ、もう一度劇場へ・・・(って、商売の方も、オンナ同様になかなかしたたかである)


2014年7月25日金曜日

砂漠の中から一本の針を探す。



こんな短時間であぶり出しができるのか!
知りたくもないことまで知ってしまった。
さあ、どうしたものか・・・
試してみました・・・「デジタル・フォレンジック」


某社の技術者を内々に呼び寄せたのは先日のこと
デジタル・ファレンジック(DF)なるものは、
IT社長として当然に知識としては知っているが、具体的に活用するすべはない
理屈だけいえば、遺伝アルゴリズムを活用し、短時間で文書の自動分析・分類して
重要な文書(事実)を炙りだしてくれるが、
単純な「キーワード検索」ではなく、Predictive Coding方式というのがウリ

将棋ソフトと理屈は同じです。
等比級数的に増えていく次の一手を沢山読むのが賢いのではない。
多く読まないことで、最善の手を見つけだす技法

一般に「DF」とは、次のように定義されます
広義な意味でのデジタルデータに対する「コンピュータ-鑑識技術」であり、
以下の様な作業を意味する。

 
・デジタルデータの復元
・デジタルデータの中から必要な情報の検索
・デジタルデータから不適切行為の摘出
・情報漏洩の検知
・米国訴訟法でのeデイスカバリー対応
 


 
いまや知的犯罪捜査に欠かせない手法であり、企業不祥事の第三者委員会でも
裏方として活躍している。
見た目、ビッグネームな法曹関係者や公認会計士が名を連ねるが、裏方の活躍が
なければ、それこそ「祭りの神輿」である。



数万件のデータを渡しながら・・・

予備知識はとくに与えませんから、
予断なく「匂い」嗅ぎ分けてくださいよ
とりあえず、トライヤルってことで無償でおねがいしますね(笑)


しばらくして、コンフィデンシャルレポートが届きました。
いくつかの「事象」が列挙されています(汗)
短時間にここまで事象分析ができるのか・・・



傾向は分かった!
あとは対策だ(デジタル化された個人の情報から如何に自分を隠すか・・・苦笑)


2014年7月24日木曜日

男の本懐・・・頼政異聞



平家でなければ人でなし・・・没落する清和源氏の末裔。
内心はともかく、平清盛に膝を屈し滅私奉公の日々。
しかし不遇なもんで・・・まあ、芸は、身を助ける

 
・・・・・・ 椎(四位)を拾ひて 世を渡るかな

 
なんて、歌読んだもんで、感心か憐憫かはともかく、三位になれたとか。
歌読んで出世ができるならいくらでも和歌くらい詠みますがねえ・・・(苦笑)
感情的には相当に屈曲していたんでしょうが、おくびにもださず・・・
なもんで、死に花咲かせみたいに暴発した。
お陰様で、史書や文芸にも名をなし、してやったりって思うのですが、
以仁王を担いだ暴発した宇治川の合戦で敗北、自害


辞世に曰く


埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 身のはてなるぞ 哀しかりけり


最後まで内心を見せずに慎ましいのが「男の本懐」ってもんらしい。
しかし、武勇に優れ、歌が巧み、年は召していますが、財と社会的地位はそれなり。
その辺の若さだけが取り柄のアホはさておき、
美貌と教養のエレガント女性にもてないはずが・・・・ない(笑)



降らば なお降れ しののめの雪


感情がほとばしるような芯の強さが垣間見えます。
当然上の句がありましてね・・・・


しのびつま 帰らん跡も しるからし


ほっそりとした背なを見え隠れに、たちかえるかげひとつ。
この忍ぶる恋、しられてはならない。
後ろ姿を見とどけながら、一足ずつ、降る雪に隠れていくとはいえ、
足跡まで気になる。「雪よ、もっとかき消せ!」
老残の悲恋にも似て、ちょっと実話っぽく艶のある(笑)


倭国のデートの基本は妻問婚の風習に由来します
通ってくるオトコに待つオンナ
王朝和歌でも、オンナの立場でオトコが代理詠するのが通例で、
この歌も、しのびつま=しのび夫だと・・・それが通俗解釈

しかし、強さな歌風と艶っぽさが表れて「通ってきたのはオンナ」とおもいたくなる。
頼政って、結構もてたのですよ。
この和歌は・・・

 
オンナのふりしたオトコが、オトコ装束で通ってきたオンナを
見送る様をうたった頼政の絶唱
 

送って行ってあげたいんだけどさあ
お互いバレるとマズイじゃない
悪いけど、一人で帰ってくれる
朝焼けで暗くはないと思うけどさあ・・・雪だし
危険ドラッグ飲んでそうな暴走車には気をつけるんだよ・
・・・って会話が目に浮かびます。









2014年7月23日水曜日

あなたには悪魔が欲しがる才能がありますか?

https://youtube.com/watch?v=2yGCifW1hmM  才能のためには悪魔に魂でも売り飛ばし・・・・ しかし、買った相手が小物なのか、ろくでもないアーテイストばかり登場します。  本当の悪魔に魂を売った芸術家は、公言しないものだし・・・・  パガニーニの技巧力が悪魔のおかげかどうかは分かりませんが、 超絶技巧だと言うことは疑いがない。  性格、生活も驕慢、放縦で、教会の墓地に埋葬させてもらえなかったのは事実。 ご子息は、防腐処理をした遺体を抱えて、墓地探しに大変だったらしい。 1840年に死んでいますが、安息の地に落ち着いたのは、二十世紀半ば前ころだった。   映画素材としては食指を動かされるところですが、家族向きの音楽映画にはならないし、 そもそも、主役がヴァイオリンをそれなりに弾けないと絵にもならない。 なもんで、現役のイケメンヴァイオリニストが主役を買って出ました。 地味系な映画ですので、行きつけのシネコンのプレミアムスクリーンの上映。 毎度は、片手から両手程度の観客が、なんと、満席寸前。 https://youtube.com/watch?v=wp0vuaMkEqU まあ、興行的には慶賀の至り。 しかし、悪魔のヴァイオリニストの天使の部分を強調されると 興醒めってものです。 ルシフェルとは、サタンと同義な悪魔社会の頂点に立つ者 元はと言えば、堕天使と言われるがごとく、神の側近の大天使であった。 さすがに、サタンとエンジェルはコインの裏表というような表層的な物語でもないが、 いささか残念。 処で才能とは買ってくださいと媚びるものではなく、売ってくださいと媚られるもの。お座敷すらかからない凡人には無関係な世界のようです。 悪魔に魂を売れば、天国には行けず、悪魔のしもべになり、鬼畜の所業を行うようになる。あの世の話だから、生きているうちは栄耀栄華・・・と思う向きには悪い取引ではない。しかし、魂を売って欲しいとも思えない連中ばかりな今の世相。 魂を売る前から、悪魔の三下がその辺を徘徊している。

2014年7月22日火曜日

ただの俸給生活者でよかったと安堵した夜の事

俸給生活者はお気楽だとつくづく思った次第。
森下洋子さんだか草刈民代さんだかがいうように・・・・

一日サボったって、自分自身何も思わない。
二日サボっても、同僚はなにも言わない。
三日サボれば、さすがにお取引先が、文句を言うかも知れないが・・・


実のところ、バレーはみた事が無い。
毎度の台詞は「舞」だと約束事が分かるが「踊り」は表現の解釈が出来ないと言うのは表向き(笑)
欧米の一流どころだと、お値段も相当なレベルが本音。
かの「白鳥の湖」だと、その他大勢の白鳥が三十羽。
宮廷に候する男衆や女衆がざっと三十名内外
当然スペアもいるだろうし、裏方もいる。
楽器編成も、通常の弦五部と管楽器にこれでもかというくらいの打楽器陣、
ハープやクロッケンシュピールまで登場します。

遠路はるばるチャーター機を飛ばしてやってくる。
チケットは高くて当たり前。
日本の劇団でもいいのですが、やはり、体型、骨格・・・
平べったい顔相を、メイクで凹凸をつけても、失礼ながら限界がある。


毎度、パリオペラ座のライヴビューイングをご贔屓にしている。
オペラだけでなく、バレーにも挑戦ということで、いつものシネコンの
プレミアムスクリーン。
70席程度でゆったりとボックス席の味わい。
珍しくも満席に近いのは、演し物のポピュラーさもあるが、
エトワールのアニエス・ルテステェの最後の舞台だったよし。
生粋のパリジャン。
1997年、27歳の時からエトワールに君臨。
説によれば、177センチの体格。バレリーナの体重の上限は50キロらしいので、全身これバレーのための骨肉のみとおぼしきアスリートである。
確かに、日々弛まぬ努力で我が身を鍛えないと、サボリはすぐにパートナーや
観客にしれてしまう。
圧巻の三十二回のフェッテ!あのマジシャン猫のミストフェリーズだって、たったの二十五回程度。
げに恐ろしき職業である。
本当にただの俸給生活者でよかったなあ(笑)





しかし、舞台の良し悪しは、相方、それも悪役で決まる。
オデット姫に呪いをかけた悪魔・ロットバルトを演じるカールパケットの
凄みある金髪の輝く美貌。
ジークフリート王子を演じるエトワールのスペイン人なんか善良そうなハンサムであるがとても眼ではないし、そのスペイン人も
退団したらしいので、しばらくは、彼がエトワールに君臨する。
だから、顔が平べったいとやっぱりだめなんですよ(笑)

削げたような頬
くぼんだ妖しの青い眼
そびえる鼻梁
尖った耳

これこそ、デモーニッシュってものです。



お話は定番通り。
今回は、悲劇で終わるバージョンでしたが、
ロットバルトの凄味を強調したくなる舞台設計からすれば、けだし当然の選択。
そうそう、振付けは、定評のあるヌレエフバージョンでした。
バレーにも様々あるのでしょうが、白鳥の湖は様式美の極致。





2014年7月21日月曜日

なぜ「彼女」が重要なのか(改版)



彼女は、中部ドイツで生まれ、
ポーランドとリトアニアの中間地で育成された中流ユダヤ家庭の出身である。
その波乱の人生から・・・
ファシズム(ナチズム)とスターリニズムをともに全体主義として深く批判し、
政治参加と公的領域の重要性を唱え、さらに思索と判断にもとづく精神生活の意義を説いた。


21世紀のいま、全体主義の根は姿形をかけていまだに生き残り、
消費社会と技術社会のなかで、
かつての命がけの革命がめざした新しい政治のかたちは窒息死寸前。
さらに誤った思索と判断が世界の対立を激化させ、人類の将来を危うくさせている。
だから彼女の課題はいまも未解決のまま残されている。

過剰同調性(集団ヒステリーあるいは大衆迎合)は、どの社会にも存在し、
それは、全体主義の潜在的可能性であり、アメリカにおいてすら
マッカーシズムとして、多くの不幸を生み出した。


彼女によれば・・・

全体主義は「政治」の消滅である。
正しい「政治」とは思索し行動する人間により行為され、
全体主義はそのような人間を排除する。
がんじがらめの全体的意志のもとに人々は屈服を強いられる。
テロと戦争の恐怖が思考を麻痺させていく。
対立を煽り立て、思考の麻痺状態に人々を追い込んでゆく。
全体主義は20世紀に登場した新たな統治形態だが、
それは第二次世界大戦の終結とともに終わったわけではなく、
いまや手を替え品を替えていまも・・・
それも狡猾巧妙に民主主義的な皮を被ってつづいている。

 
彼女は、孤独な思考するマイノリティである。
従って、彼女が「イスラエルのアイヒマン裁判」から読み取ったものは、


絶対悪としてのナチスの代弁者:アイヒマン
無謬の抵抗運動
被害者以外の何物でもないユダヤ民族


という刷り込まれた歴史認識へのアンチテーゼであり、
一番痛い点を暴かれたという「憤激」が、まさしく麻痺した思考からくる攻撃となった。


2012年に「彼女をタイトルロール」とする映画が制作され、上映され、k
岩波ホールが連日満員御礼となったことは「社会現象」である。
しかし、それは危険な時代到来の警鐘なのかも・・・



ハンナ・アーレントの重要な著作は、ありがたいことにちゃんと邦訳されてます。
しかし、残念なことにどれも大部で難解。
お手軽に読もうってたぐいな内容じゃないですが
知る限り一番知的でお手軽な「入門解説」書がこれかな。


なぜアーレントが重要か(みすず書房版)
ハンナ・アーレント「戦争の時代を生きた政治哲学者」(中公新書版)

先日、本棚整理をしましたが、彼女系の著作は、センターじゃなく
毎晩お神酒を上げながらの別室に鎮座させています。

2014年7月20日日曜日

Something Wicked This "Bridge" Comes.


良い子は、早寝早起き。
夜遊びはしない。
巷の闇は、鬼、妖怪がうごめく。
それは、邪悪なモノと言うよりも、畏怖の念を思い起こす・・・

   
光の時は、人間の世界。
闇の頃は、百鬼が巣食う。
 
  
昼から夜の橋渡しの頃を・・・そう「逢魔が時」
そう魔物に出会う頃・・・ではなく「大禍(まが)時」
一番禍々しい時間帯。
黄泉の国の扉の開くとき。

  
美しく言えば・・・そう「黄昏時」
でも「誰ぞ?彼・・」とも
薄ぼんやりとした頃に出会うのは、愛しいあの人ではなくもしかしたら魔物かもしれない。

 
たれぞ彼 逢いたし人は薄暗闇 逢魔が時の 橋渡る端
 
京都堀川一条にある「戻橋」
大内裏の艮の方向にある洛中と洛外の境界
人が死ねば、葬列は、この橋を渡り、化野へ・・・
そう、この世とあの世の渡し橋。
渡り切る前だと、柩にとりすがり、神仏の力で、
この世に戻ってくるかもできるかも・・・
バス停には「晴明神社前」とも、安倍晴明人気のあやかり。
そう、彼のテリトリーなのです。
  

高名な武将渡辺綱は、橋の袂で、美女に出会うが、それは鬼女
奮闘むなしく、片腕を失う。
橋の袂に佇むおんなは、真知子さんではなく禍々しい

 
さむしろに 衣かたしき今宵もや 我をまつらん 宇治の橋姫
 
一見、薄幸の美女のよう。でも、本当の「橋姫」とは・・・
妬ましいオンナを取り殺すため、貴船神社のお告げにより
姿形を変じ、鉄輪を逆さに頭に載せ、宇治川に21日間浸り・・・
生きながら鬼になったよし

 
そうドラマの生まれる場所

 
お能の舞台では、彼岸と此岸の間に「橋掛かり」
橋のたもとには、三本松(舞台側より一の松・二の松・三の松)
亡霊や悪霊が恨みや苦しみを引っさげて、彼岸から此岸にやってくる。
法力のお陰で、晴れて成仏し、同じく橋掛かりに戻り、彼岸に帰って行く

しかし・・・拍手のタイミングを間違えると、また舞い戻ってくる









2014年7月19日土曜日

あらためて・・・「恋の感受性」



YUMIさんは「嘆いて」言ったそうです。
 
 
MIYUKIって、アタシがせっかく乾かした洗濯物を、
またジトーってしめらせてしまう小糠雨みたいな・・・
 
  
二人はツイン・ピークスみたいな存在ですが、
仲良しなのかどうかはよくわかりません。
みゆきさんには、かつてよしひろ君って、お友達がいましたし、
タクロウさんとは、はずみがあれば結婚してたかもとも・・・とも思います。
かの「永遠の嘘をついてくれ」♪♪なんか、その心情をまざまざと伝えます。
みゆきさんが他人の舞台にワザワザ出向いてくるなんて気持ちにおいて半端じゃないですよ。


 
 
さて、乾いた感覚と湿った感覚って面白い対比だな・・と
思いつつ、「恋の感受性」について考えています。
古今和歌集は、20巻一千百余首の歌集ですが、
そのうち季節の歌(春夏秋冬)が6巻。
そして、恋の歌が5巻!
なんと「こいうた」は四分の一に相当します。
うたを読むこととは「季節感と恋の気持ち」を表現することそのものなのです。

 
恋は、
 
→ 出会い(見初め)
→ 気持ちが通じ合い
→ はじめて逢い
→ 齟齬が起き
→ 別れ
→ 失恋の思いに涙し・・・・というような典型的な流れがありますが、
 
 
上記の5巻は、その時間経過をそのままにうたが配列されます。
当然ながら、最初は「心ときめき」、思いが通じはじめて逢うことを「喜び」
ちょっとしたことで壊れてしまったことを「悔い、涙する」という
展開になるハズなのですが・・・・

どうも違うのです。

 
この週末に、八代集をひっくり返して、調べたのですが
どうも、この国には「楽しい恋」のうたがない!!
恋とは「苦しいか悲しい」かだけ。これって「湿った感覚」ですよ。
それどころか「涙の海」で溺れそう・・
明るく太陽の下って青春的な健全ふう恋愛観とは全く無縁です。

 
逢えないから辛い
待っても逢いに来てくれない
逢うとわかれが辛くなる(だからいっそ逢わない方がいい)
辛いくらいなら死んだほうがまし

 
演歌の世界は言うに及ばずですが、J-POPSの世界でも
情念のように「恋は苦しい」感が綿々と底流に流れています。
日本的美学においてはかような「忍ぶる恋」こそが最高の恋なのです。
女々しい王朝人だけではなく、武士道の聖典「葉隠」でもそう言っています。

 

世界的には、恋は楽しく・嬉しく・健康的・・・なんですが・・
でも敢えて言いましょう。
恋愛のメッカ、お仏蘭西最高の恋物語、それは

 
アデルの恋の物語

 
忍ぶる恋より、情念のような狂気の恋こそが最高の恋・・かな?













2014年7月18日金曜日

江戸時代の幻



増税と重税、度重なる災害、汚職官僚の横行、住民の不満は百姓一揆へ・・・
最後を除けば、今の時世と変わらないイメージが江戸時代
というか、一揆を起こす気概すらなくし、ネトウヨ気取りで愚痴るか
海外逃避するしか藝のないさまでは、はるかに民度の劣化かも・・・ 


かような暗い「江戸時代」のイメージは、虚像だという考え方が主流をしめてきた。
江戸時代を暗黒化することにより、明治維新革命の正統性のイメージつくり・・だとすれば
それは、まっとうな歴史認識ではない。
ともより、その時代を正確に認識することは難しい。何事にも光と影はあり、
それぞれの見方しだいである。


日本人は、裁判で決着をつけることを好まず、和の精神で「話し合い」って、これも江戸幻想
元禄以降訴訟が激増し、享保年間では民事だけで年間三万件強とは恐れ入る。
それが事実なので「大岡政談」というような裁判ネタが市民の共感を呼ぶことになったのだろう。
同時に、なかなか洒落たお裁きも多かったみたいだ。


老母を養わんがための三両の借金を冷酷にも断った叔父を殺害し、自首した三十路なオンナ
女の孝心に哀れだお奉行さま。
三両を貸し与えるので、毎年一朱返済すること。
返済が完了すれば獄門縛り首とする。
返済が終わる頃には、後期高齢者ですわなあ(笑)


大岡政談は、棠陰比事のCOPYですが、この話題はどうも実話みたいです。
我々の江戸の常識が次々と覆っていく当時の文献は多い。
しかし、とてもよみきれませんねえ・・・
ということで、お手軽に渡辺京二さんの著作なんか拾い読みするのが一番。



昨今の江戸ブームって・・・
労働と規律の重視から遊びと自由を標榜するポストモダン
再生可能なエネルギーによるエコ社会
・・・なんかへの「憧れ」が背景だと彼は言う反面、
取り返しがつかないくらい失ってしまったことへの「苦渋」なんかにも感じ入る・・・
変えてはならないことを変えない知性が失われてから久しい・・・と考え込む



ところで、明治維新をどうとらえるのか?
それが、江戸の再評価と連動します。
かつて、マルクス主義華やかかりし頃、講座派と労農派は、それぞれに・・・

不徹底ながらの市民革命である!
ちがう!
支配者階級における権力闘争であり、革命ではなくクーデターである。

まあ、様々な側面がある以上、どっちかに断定することは無理がある。
どっちかと言えば、前者の色彩で始まり、その精神が歪められ、
後者の色合いが強くなった・・・と考える方がいい。


それに、発展途上国というような未開の地(白人視点ですが・・)では

自分の力だけで革命だろうがクーデターだろうが、時代を変革する勇気も知力もない。
従って、選民たる白人が「指導支援」しなくて、
自由・平等・博愛な新しい世界を造りようがないでしょう・・・

たしかに、CIAやら死の商人の暗躍した事例は、枚挙にいとまがない。
ということで、善意ぶったお節介なフリーメーソンなんかが「維新に介入」したとかや・・

変革には「排除の論理」はつきもの。
反時代的な○○天皇は「暗殺」し、
カリスマ性に乏しい▲▲皇太子なんかは「替え玉」にするにしかずって・・・

こんなことを書き散らすのは、コンスピラシー(苦笑)
ちなみに・・・白人維新サポーター三人衆は、

アーネスト・サトウ(外交官)
トーマス・グラバー(武器商人)
グイド・フルベッキオ(写真家)

彼らはいずれもフリーメイソンとされるが、どうも証拠に乏しいらしい。 






2014年7月17日木曜日

Die Grosse Stille(大いなる沈黙)




世界最高のフレンチリキュールや世界三大銀灰色の猫を思い浮かべるであろうと
容易に想像できるのは、音信不通な某氏。
まあ、そういうことはどうでもよくて・・・(苦笑)
信仰心の深い方々だと思いを馳せるのがフレンチアルプスに所在する男性専用の修道院。




 

グランド・シャルトルーズ修道院  

女人禁制の最後の砦の一つである。
地球が滅びる最期の日になってもオンナとカメラは立ち入れない・・・はずが
奇蹟が起きた。


1984年に撮影を申請
2000年(・・・とは微妙な年ですねえ)に許可
2005年にドキュメンタリー映画として完成


但し、映画として必要な構成要素の多くは映画製作許可条件として排除された。

 
・修道院に立ち入れるのは監督一人だけ(製作スタッフのいない映画撮影)
・音楽は使用しない(でも無声映画ではない。生活音や自然音は聞こえる)
・ナレーションはなし(修道院内は礼拝以外は沈黙ですよねえ)
・照明なし(自然光だけでの撮影はありえますがそれでも照明スタッフはいます)


 
奇をてらい才気バシッた実験映画ではない。
己がもつ映画技法のすべてが通用しない中、
半年間手探りで孤独な映画造りを行った果てに見えてきたものを、
幸いにして我々はスクリーンから感じ取れる。
 
映画とは、一時の慰安と享楽を提供するだけのものではないことを教えてくれる。
風や光の中にも、言葉や音楽があることも教えてくれる。
ある意味で苦痛な169分ですが、苦痛の果てでしか得られないものがあることも
教えてくれる。





2014年7月16日水曜日

考古学的人情調査

オフィスからは、青山通りを越えて、赤坂御所を横目に、明治記念館、信濃町駅をとおりすぎ、
お気に入りの雲南米線のお店から四谷三丁目は目と鼻の先。
新宿通りを過ぎ、曙橋の新宿通りまでの東側一帯にその街はある。
さるお大名のお屋敷跡だったらしいし、
家康が馬の鞭を洗ったという策の池なるものの面影は想像すべくもないが、
アップダウンのきついこの辺りは、かつては有名な花街だった。
その残り香とどめるように、小洒落たお店が集積している。
予約でしか入れないセルフサービスの居酒屋とか絶品の穴子料理屋とか・・・
夕涼みがてらに彷徨うだけでも楽しいが、
バブル開発の残渣も同時に見かける。


四ツ谷荒木町

十五年前に芸妓上がりのアパート経営の老女が殺害された。
土地取引を巡るトラブルと思われたが、事件は迷宮入り。
とあることから、干された刑事が、事件を掘り起こす羽目になる。

佐々木譲さんは、目の行き届いた警察小説を得意とする。
なんとなく、道を踏み外したような刑事たちが地道に愚直に活躍する道警シリーズ関連は、
貴重な読書時間を費やすほどのものではないが、
ちょっとした息抜きには手頃である。

このような街は、都会の割りに濃密な人間関係が残っており、
ドロドロした人間模様の果てに、隠しておいたものが次々に露わになる。

タイトルの「地層捜査」とはうまいネーミングだ。
粘着質な考古学者発掘現場を垣間見る思いがする。
しかし、忘れてしまいたいような過去をほじくり出して実現する正義とは一体なんなんでしょう。
個人的には時効制度の廃止には賛成しかねるのですよ。
正義のあくなき実現という大義は、大義であるが故に胡散臭い。
被害者感情への過度の思い入れ・・・とまで言えば言葉が過ぎるかもしれない。
世の中、全てにシロクロ決着をつけねばならないってことばかりでもない。

シリーズ第二作目も刊行されました。

舞台は・・・・代官山

今はおしゃれな街で通用するが、昭和初期は雑木林だらけで、
闇夜には鵺がなくような場所だったらしい。


2014年7月15日火曜日

あなたの文化度?




どう読むかで文化度がわかる。

すい?
いき?


前者が上方で後者が江戸前
反対概念が、無粋(ぶすい)に野暮(やぼ)
 
ここまではまあいいとしてもですが・・・



しかし「行動原理と美意識の表現」の対比と言われると逆のように思えます
それぞれに美意識も違うって言われるが、これまた不可解
上方は京友禅のような華麗
江戸前は江戸小紋のような地味控え目
しかし、元禄の頃の東西衣裳比べなんて記録読んでますと、大抵は・・・、
 
満開の桜の清水の舞台なんかを試合会場として
壮麗豪華な衣裳の江戸前が、
地味の中に見た目の華やかさ以上の上方の美学の発露に惨敗し、
すごすごと尻尾を巻いて退散するって筋書きなんですがねえ(苦笑)

 
京は紅梅、江戸は白梅・・・これもねえ
たしかに、唄の文句ならば湯島は白梅だが、北野天満宮は紅梅だったか?
あの辺りにも、白梅町という地名があります。


 
物の本的には「いき」って言えば・・・
 

義侠心
媚を売らない
執着心がない


そういうとなんか良さげなですが、つまりは「痩せ我慢の精神」。
宵越しの金は持たないって自慢しますが、正確には「モテナイ」でしょう
実はこれには続きがあって、たしか・・・
 
カネは欲しいが・・・・だったかな(笑)

 
江戸前をボロッカスにいうのは本意ではないが
きっぷの良さで「いき」の女版代名詞な辰巳芸者は、
四畳半で泣く泣く帯を解いても、心は売らないって心意気だそうです
でも、目の前で帯解かれると逆に困るし、心の押し売りもありがた迷惑ってものです。



さて「いき」というような生き様が江戸前として普遍化したのは、江戸末期文化文政の頃
文化の東西発展段階からすれば、同時代的に対比するには無理がある。
そもそも別物と言うべきかどうかにも疑念がないではない
九鬼周造の「いきの構造」なる名著によれば、
必ずしも別物という決め付けをおこなっていない。
ありていに言えば「日本人の一般的な行動原理だし美意識」ということらしい。
一体英語でどう訳すんですかねえ?
フリー翻訳ソフトの知的水準は百も承知ですが・・・


シック
エスプリ
エレガント


どれをとってもちょっと褒めすぎです。
クールというくらいが一番無難かもしれない

2014年7月14日月曜日

ムッシュ・ド・パリ・サンソンあるいは死刑なる「文化」


公儀介錯人なる国家公務員は、現実には存在しない。
したがって、拝一刀なる剣豪は全く架空人物であり、
彼の使う「水鴎流」なる流儀は・・・同姓同名なのは古武道でありますが・・・
歴史上存在したのは、御様御用(おためしごよう)役の山田朝右衛門。
世に言う「首斬り浅右衛門」
しかし、江戸政府の公務員ではなく、永久嘱託みたいなものである。
まあ、不浄役人ですからねえ・・・


一方
仏蘭西国では、ギロチンによる死刑制度が存在していたころまでは
サンソン家が数百年にわたり、その任務を果たしてきた。
どうやら、サンソン氏も公務員ではなく、朝衛門同様に永久嘱託職だったようである。



国家公務員ではないので、月給ではなく、処刑の数で受託費が払われたのであろうが、
平和な倭国では、それだけでは生計が立てられず、
しかし、そこそこな役得があり、結構優雅な生活を送っていたらしい。
千利休よろしく、日本刀の目利き鑑定料ってな、当たり前風な収益もあったそうである。
また、893のエンコツメや女郎の契りの指切り
なんかも・・・要するに外科医の端くれ。

ところで、最大の役得は「死体の処分権」
贓物を医薬品として、密かに売りさばくことで巨益をえていたらしい。
熊の胆なんて、高額医薬品の代表例ですが、クマさんであの値段ですから
さぞかし・・・・
要するに、医者と薬剤師を兼業する死刑執行人なのです。
その逆もあるのかなあ・・・笑



ある夜のことです(実際にあったらしい)
指名手配中の上州無宿人が、朝衛門を訪ね、
近々に斬罪になった際の臓器売買利潤の一部の前払いを陳情したらしい。
朝衛門がその要請に応じたかどうかは知りませんが、多分、快諾したのでしょう(笑)



1882年、刑法の施行により「死刑は絞首による」とされますので
山田家は、生計の道を閉ざされ・・・あの人は今・・にも
まったく登場しないまま歴史の一芥のなかに消えてしまいました。
サンソン一族も同様に影も形も見えない(そうな・・・)


死刑制度が「文化」とは申しませんが、
ある種の制度の廃止により失われた「遺産」もあるというも忘れてはならないことです。 



2014年7月13日日曜日

仮面 この原始にして奇妙なもの





お能を始めて以来「能面」をどう理解したのがいいのか未だに迷っている。
能面は、伎楽の面の延長線上に位置するとされるし、
基本的に面(おもて)をつけての演劇形式も、伎楽の演舞と同様なのです
つまり、日本の仮面劇は、仏教伝来のころが濫觴なのです。
 
 
しかし、仮面自体は人類の文芸への触発と同じくらい古く、縄文時代の土面が残っています。
つまり、人間の精神生活の歴史=仮面の歴史なのです。
 
仮面の効用は、覆面の機能(正体を隠す)にあるとされますが、
その歴史の鑑み、根源的には、儀式(演劇・祭礼)での役割(多くは超越的なるもの)に
なりきるための道具です。
 
 
西洋では、仮面舞踏会であるとか、仮面劇の歴史が中世末期より認識されますが、
その起源はともかくとして、どうも「覆面」の機能が重視されるようです。
それが理由かどうかはわかりませんが、現在では廃れきった芸術形式となってしまい、
その実像もよくわからないままになっています。
 
 
一方で、仮面舞踏会は、形を淫靡にあるいは陽気に変えて、未だしぶとく生き残っています。
今年のハローウインは、狂乱も騒乱は、どうなるんでしょうねえ。
密室でのセクシャル◯Mパーテイ(映画:アイズ・ワイド・シャットにも登場します)も
ひそかに隆盛をきわめているのでしょうか?
ロミオとジュリエットも、仮面舞踏会であったがゆえに恋に堕ちたのかもねえ・・・
しかし、倭国の風習として一般的に根づいているという印象はありません。  
仮装のイベントって記憶にありませんが、もともとは薄暗い室内ですので仮面効果なし!・・・かな
  
 
さて、仮面とは「役が化体」されたものです。
歌舞伎の「隈取」も、その変化形かもしれません。
ところが、近代演劇では、スッピンで演じます。
西洋演劇に由来するリアリズムの追求の結果という側面が妥当なんでしょうが、
現在能における直面(しためん)が補助線になっているという解釈はどうでしょうか。
 
   
お能では、夢幻能と現在能に大別されますが、一般的な理解で言うお能とは前者です。
主人公は死人等超人的なもの(霊・怨霊・神・架空な生き物等)であり、かならず「能面」をつけます。
しかし、後者では、能面を使用しません。
正確に言えば「仮面」として能面を使用せずに、自らの顔を能面に見立てるのです。
現在能では、主人公は生身の人間です。
例えば
  
・安宅の関所を突破しようとする武蔵坊弁慶(安宅)
・旅の僧(実は執権時頼)を秘蔵の鉢植の木を切り、もてなす鎌倉御家人佐野某(鉢の木)
・帝の愛人を探しに行くSPの源某(小督)

    
能役者は、素顔で演じているのではなく、あくまで「直面」という素顔の仮面をつけているとされます。
従って、表情をつくってはいけない!
これは奇妙な風景です、
お芝居である以上、喜怒哀楽は表情にでるもの・だすものですが、
それを表情以外で表現するのです。
見ようによっては、極めて難度の高い演技かもしれませんねえ。
 
  
演劇や演舞は仮面劇でなけれなならないという定めはなかったと思うのです。 
どうしてお能は、そこまで「仮面」にこだわるのか・・・(これが超疑問なのです)

  
 
心から得心しているわけではないのですが、ある仮説があります。
それが「怨霊封じ込め論」
演じる以上は、役になりきること=入魂の演技が至高の演技ですが、
さすれば「死人を演じることは死人になること」となり、いささか不吉と
言うほかはない。
さすれば、その「不吉」を封じ込める機能を、能面に求めた・・らしい(?)
つまり「能面ファイヤーウォール論」です。
もうすこし、敷衍すれば・・・

普遍的な演劇論というわけではなく、倭国の考え方は、
他我を演じること自体慎むべきことを前提に、それがなんであれ憑依することを
防御する必要があり、その憑依のリスク度合いに応じて、
直面あるいは能面を使用する形態となった   ・・・・ほんまかな(笑)
韓国にも同様に仮面劇があるのですが、使用された仮面は、終演後火中に投じられ、
残ることはない・・・
ある仮説の傍証として、有力な事実です。
つまり「穢れ」の除去 
 
 
演劇の起源を「呪術性・宗教性」に求めれば、この仮説はそれらしいのですが、
人間の本性にあるらしい遊びの精神=ものまね起源も有力とされる
倭国の演劇(演舞)の初めが「アメノウズメの踊り」だとすれば、
観客たる神々が、客席で手をたたき大笑いをしながら・・・と神話に記述されてますから、
まあ「遊び」かな。
でも、天照大御神の降臨祈願ですので宗教性も高い。
さすれば、片方に断定的に論じるのは、いささか偏狭ということになります。


 
推論あるいは思索は、堂々巡りを繰り返し、収斂することはないのですが、
それ自体が楽しいといえば楽しい。














 
 




2014年7月12日土曜日

無言電話と言わないで、ただ言葉がでなかっただけ・・・


かような唄が流行ったこと自体が病理的だとも思うのですが、
どうも、流行る背景には、怖いことを可笑しく表現するからということもあるようだ。
オオタスセリさんが次のように歌ってます。


奇天烈な動画は、一番最後です。


↑ ストーカーと呼ばないでってタイトルです


ストーカーは犯罪です。
ちゃんと規制法令もできてます。単なる軽犯罪や迷惑行為ではない・・
統計的には、年齢的な偏差のない男性の犯罪とされ、被害者は若い女性と相場が決まっている。
つまり、好意の感情があまりに高揚し、その感情を「素直に受け止めない」
相手方の姿勢に対して怨恨の情を持つというのが一般的だとことである。

一方的な恋情をもち、相手側につきまとう・・・というのは今に始まったことではなく、


アデル・ユーゴーはイケメンの軍人を熱帯地方まで追い求めました。
柏木は、女三宮に対する代償愛として彼女の愛猫を掠め取り、愛玩しました。


識者が、様々に分類していますが、


・自分が好意を持てば相手も持つはずだ(自信過剰)
・今でも好きなんだ(未練執着)
・相手をとりこみたい(支配欲求)
 
要するに、ストーカー犯は、自己中心的で自己規制の歯止めが掛からない
人格未熟なタイプだということになります。
そんなこんなな性格は、性区別に起因するものなのかは、よくわかりませんが、
満たなされない思いを攻撃欲求に転換させうる点が男性型犯罪なのかもしれません。




でも、映画「危険な情事」でのグレン・クローズさんは、本当に攻撃的でした。
また、言い寄る深草の少将に百夜通いを強いた小野小町は、
ストーカー的傾向のオトコを手玉にとり、ある意味こっちのほうが上手かもしれません。



今昔物語に登場するイケメンの平定文のエピソードでは・・・(巻三十)

言い寄っても埒のあかない侍従の君に「愛想をつかさん」がため

人も見えぬ所に走りより筥(要は使用済みのオマルです)を奪い・・・恐る恐る
筥の蓋を開けたれば・・・

(汚きものでも見れば、愛想がつきる・・と思ったのですが、侍従の君が上手)

尿とて入れたる物は丁子を煮て、その汁を入れたるなり。
今ひとつののものは、野老・合わせ薫物(練香)をあまずらひちくりて、
大きなる筆柄にいれて、それよりいださせたるなりけり
定文は、あまりのことに病つきて、悩みける程に死にけり・・・とあります。


2014年7月11日金曜日

飢えと渇き




辞書的な差異を明確にすることに意味は無い。
飢えれば固形物、渇けば液体系ではあるが、
イメージ的には、前者は下部構造的であり、後者は上部構造的だと思える。
飢えは物欲が満足されれば一端は収束するが、
渇きは精神的であり、癒えることは難しい。

かのスタイリッシュな吸血鬼映画は「ハンガー」だった。
バンパイヤーさんは、生き血が主食だから「飢え」でも矛盾はない。



失踪した優等生藤島加奈子
追い求める元警部補の父親
真相なるものに近づくほどに「渇き」は肥大化し癒えることはない・・・
肥大化する「渇き」はより激情化・暴力化する。


深町秋生の「果てしなき渇き」が癖のある監督と役者の手で映画化された。
映画って一時の慰安と享楽を提供するだけの娯楽で癒しの道具なのですが、
エンドマークの向こうには「絶望」しか提供できない作品であり、
それをもってお客様からオアシを頂戴しようとするのは不届き極まりない(苦笑)


シネコンでも初日だからか大きめのスクリーン上映
アート系単館ロードショーが似合いそうな・・・(苦笑)
出来は悪くはないが、そもそも陰惨すぎるし、賛否両論かもしれない。
しかし、使用する音楽のセンスだけは、邦画してはよく出来ています。



原作は深町秋生の「このミス大賞」受賞作。
山形県出身の若手のハードボイルド系の作家さんです。
八神瑛子シリーズがすこしだけ有名です。
刑事って「オンナに向かない職業」だと思うのですが、かかるがゆえに
そこそこミステリー系では・・・八神以外でも


姫川玲子
音道貴子
河野明日香


みなさん、それなりに影や闇をもっているのですが、
夫殺しの真相究明のためにはなんでもあり。
どこで原資を工面したのか不詳ですが、上司同僚相手の闇金稼業で
警察組織を壟断してまで・・・
しかし、この映画には女デカなんかは及びではない。
蓮っ葉な高校生や半グレは大量に登場しますが、
刺や毒しか持ち得ないような登場人物ばかりです。
悪人しか登場しないキタノ映画に範をとったのですなあ。


 
映画化される際に「果てしなき」をとっちゃいましたが、
だからといって「渇きに終焉がある」わけじゃない。
後味が悪いですなあ。
藤島加奈子殺しの真犯人が一番善人に見えます(笑)



2014年7月10日木曜日

疑いは人間にあり。天に偽りなきものを・・・・




異類交流譚なるドメーヌがある。
鶴の恩返し、舌切り雀、花咲か爺・・・枚挙にいとまなくなのですが、
共通して、人間の浅ましさ、不実、残忍さ。
真実の愛とか心根は、人間の持ち得るものではないと言い放つ。


人間国と妖精国は、長く敵対関係にあった。
しかし、妖精国の王妃と人間の若者は、二世を誓った恋仲。
しかし、若者の野望は、妖精を裏切り・・・・
真実の愛だと思ったハートが傷ついた妖精は、翼の折れたエンジェルから邪悪な魔女に変身。
王の座に登った若者に呪いをかける。

 
お前の娘は、十六歳の時永遠の眠りにつく。
眠りを覚ますものは・・・・真実の愛のキッスだけ

 
本当の「眠れる森の美女」とは、最愛の人間に裏切られた妖精の復讐譚なのですが、
ありもしない真実の愛
はたして、オーロラ姫は、蘇るのでしょうか?


 
そこそこの観客動員になりそうなマレフィセント。
デイズにー映画だし、主演がアンジーだし、ハッピーエンドが予定調和。
いささかシナリオに無理があり、ヒーローとして登場するはずの王子様は、呆け面。
アンジーのワンマン映画ですから、精々百分弱の作りが精一杯。
しかし、人を裏切ったり、呪ったり、復讐の念なるものは、
逆に「善なる存在」にはもちえないものらしい。
至上の愛が憎悪に変わるのはありげな話ですが、人間ならざる存在にとっては逆も真らしい。
オーロラ姫の呪いを解くものは一体??









2014年7月9日水曜日

生き甲斐適用・・・・じゃなくて域外適用ですよ。



辛気臭い話をすれば、

人主義
属地主義

要するに、罪をどこまで問うのかということです。
日本人であれば、地の果てまで・・・これって属人主義
斯様な悪行は、何人でも・・・・これって属地主義

日本刑法では、基本は国内で犯された犯罪処罰の対象としますが
日本人が国外で一定の重大犯罪を犯せば日本法でも処罰可能とされます。

ところで、外国人による国外での日本人の生命、身体に害を及ぼす犯罪は日本法でも
処罰可能でしょうか?
刑法第三条の二っていつ追加改正されたんでしょうか
どうやら一定の海外での重罪には、何人でも日本法でも処罰できるようになったみたいです。

 
もっとも、犯人を引き渡すかどうかは相手次第。
犯罪者引き渡し条約があればいいのですが、
実際に引き渡すかどうかは・・・さらに言えば、要求するかどうか(当然するんでしょうが)
可能性としては、まあその場次第で・・・

よく犯罪者が当該条約のない国に逃亡するというのは安手のミステリーに
ありますが、被害者になる虞のある我々だって、海外旅行はそういうことも
踏まえて考えるのが賢明というものです。


ちょっと「怖い話」を耳にしました。
集団的自衛権を固有の権利と認めたことはいいとして、
一番可能性の高そうな紛争地域から脱出する我が同胞を
本当に同盟国の艦艇は乗せてくれるのでしょうか?
なんと「口頭合意」しかない・・・らしい。
JALさんやANAさん、この際だからLLCでもいいのですが、飛んでるうちは
まだいいとして、飛べなくなったら、自衛隊の輸送機が大挙して・・・
でも、最近は関係おかしいですから、
領海内には一切足をいれさせない!って言われるのがオチ。
しからば、民間パイロットがサクリファイスの精神で民間機を飛ばす・・・
これじゃ、集団的自衛権って魂がこもっていない。
強権的に領海侵犯をしてでも、国民救助にむかう・・・
だけの胆力(・・と手出しをさせないくらいの腕力)が本当のところ必要なのです。
そろそろサマーバカンスの検討のために小奇麗なパンフレットを眺めたり
すでに予約もされたのでしょうが・・・再検討される方が(笑)
なんせ、この地域には在留民だけでも10万人以上。
観光客は、毎日平均一万人以上らしい。
全員が救出される蓋然性が100%とはとても・・・・


さて、域外適用なんて、嫌な渡世ですが、様々な活動がグローバル化すれば
おのずと「地球法」で縛られる時代となるのでしょうねえ。
パーマネントツーリストも、だんだん網掛けが厳しくなります。
税金くらいしれてますよ(笑)

黙って払えばいいのです。有り体に言えば「用心棒」代。
国家保護は、納税額リンクと名実ともにそうなります。
いまでも、VIPの御宅は、最寄りのお巡りさんが定期的に巡回しています。
近代国家の原点は夜警国家ですが、それはそれとして
個人としての個別的自衛権ってありましたっけ?
況や、国家としての集団的自衛権は、いささか不安材料もあります。
心優しい日本法は「自力救済」は認めません。
国家が当てにならないとなれば、最後の手段は・・・・ゴルゴ13(笑)
美味しんぼうとちがって、秘めたる人気はそこにあります。

2014年7月8日火曜日

超越するもの・・・・



この地球にヒトザルが君臨すること・・・まあせいぜい数千年。
それでも、氷河期世代を生き延びた「ルーシー」の末裔たち・・・
一万人余りが百億人程度まで膨張した。
資源の食い散らかし方が半端ではなく、はっきり言えば、世代交代してもらう方が地球のため。
それが嫌ならば、半分以下になることです。
暴論と思うなかれ!
エコロジストや反原発運動家の・・気がついているかどうか分かりませんが・・
彼らの運動の成功の果てにあるものはそれ。
ヒトザルが必要とするエネルギーを自然派だけで賄えば・・・資源不足の結果、
多くのヒトザルが死滅します。
そういう意味で活動しているのであれば、与してもいいが・・・(笑)

 
ヒトザル以前に地球に君臨したのが恐竜・・・らしい。
ヒトザルの次は・・・?


やっぱり、ゴキブリかネズミ?
ゴジラって説もあります。(七月二十五日日本公開!)
Xメンという映画の文節では「ミュータント」
猿の惑星だと、次なるヒトザルが映画の主人公で、
名前は「シーザー」です。
ネアンデルターレンシスからサピエンスへの世代交代を彷彿とさせます。

夏か秋に公開される映画だと「ルーシー」さん・・・(笑)
普通のヒトザルなんですが、脳細胞を100%活用することができる脅威の存在
結末は知りませんが、命名は言わずと知れた人類の元祖であり、
コガさんとは別みたいです。

 
しかし、一番可能性が高い仮説は理性的な論理的思考の結果によれば、
上記のような戯言ではなく、二十一世紀半ば頃「そいつ」はやってくる・・・らしい。


ズバリ言えば・・・「人工知能」
 
 
脳細胞の機能のデータベース化に必要なCPUの処理能力の劇的な向上が
可能となる時期がそのころ・・・らしい。
今だって、自己学習し、感情のかけら程度を持ったロボットまがいが居ます。
ヒトザルを「超越」するもの・・・
トランセンデンスが、人類と地球を幸せにするのかどうかは分かりません。
何事にも、光と陰。

言えることは、楽とか便利の代償って、実のところ凄まじく大きい。
お手軽って、危険なのです。



万を辞しての大公開!
制作費百億円の「トランセンデンス」
全米の興行成績は惨敗らしい(笑)
たしかに・・・・

 
スリリングなテーマ
それなりの役者・・全米的超一流家系な女優さんとか
あのクリストファーノーランの製作総指揮

 
・・なんですが、シナリオのひねりが余りに・・・奥深いテーマになんら肉薄しない。
もしかしたら、ある種の陰謀なり妥協があったのかもしれません。
あまりに恐怖心を煽ることは先々得策ではない・・・とか
どの程度か知りませんが、中国資本も入っています。










・・・・・

2014年7月7日月曜日

今日は「情人節」だとか・・・・


 
七夕さんです。
願い事はしっかりと短冊に書きましたしょう。
かの大国では、織女がドレスアップして、いそいそと牽牛を訪ねていくのですが、
倭国は「妻問婚」が習慣ですから、オトコ殿からギフトなんか持って、ニコニコと・・・
 
妻問婚の風習がなくなりましたが、最近の草食系男子のデート風景は、
原点に立ち返り、オトコの部屋にオンナが押しかけるとやら・・・(笑)

  
    
華僑圏では七夕を「情人節」といいます。
商魂たくましくセールをおこなうそうです。
ふむふむ・・伝承に従えば・・
当然、オンナが豪華なプレゼントをオトコにするんでしょうなあ
 
  
しかし、商魂だけでモノは売れない。
欲目を真心でつつんで、かようなビジネスモデルはどうだろうか?
 

7月7日:TANABATAは、遠距離「愛」の日

・離ればなれの恋人同士が
・異国のインターナショナルスクールで頑張るお子様へお母様から
・単身赴任で働くお父様へご家族から
・辺境の地で戦う企業戦士へ社長から

心温まるメッセージにささやかなギフトを・・・


たとえばですが・・・

別れてても 好きなあなたに TANABATAの

                銀の瀬河 とどけ 愛しな(品)! 



不景気なんだから、商売人も知恵を出さないとねえ。
昨日は、サラダの日。
今日は夏のバレンタイン



 
 

2014年7月6日日曜日

今日は何の日 気になる日?



実はジョン・ランボー(アルチュールではなく、乱暴な映画のヒーロー)が
アリゾナ州で今日生まれた・・・と小説には書いてます。
伝説によれば、ジョンとポールが初めてリバプールで会ったのもこの日だそうです。
あとは、公認会計士の日、ゼロ戦の初飛行の日・・・となれば相当にマニアです。
 

でも、やっぱり・・・
  
「サラダの日」でしょう。
 
  
「この味がいいね」 と君が言ったから 七月六日はサラダ記念日
 
 
しかし、団塊の全共闘世代には、80年代の俵万智さんの時代とは縁がない。
サラダ記念日をさかのぼること10年、
70年代に「元祖・俵万智」がいたのです。
  
 
迫りくる楯 怯えつつ 怯えつつ 確かめている 私の実在
 
  
万智は、ノンポリだった・・というか、政治の季節は遙か彼方でした。
元祖・俵万智の時代は、若者の反乱の時代でした。
なんと「造反有理」って便利なことばもありました。
所詮錯覚にすぎないと悟るまで時間はかからない。
が、元祖・俵万智は、奥底に抱え込んだ古傷は忘れてしま・・・・わず、
胸を張り、頭をあげ、敗残を直視し、句をしたためたのです。


炎あげ 地に舞い落ちる 赤旗に わが青春の落日 を見る

                  (道浦母都子 無援の叙情より)
 

実は、7月6日は、東大安田講堂の完成日です。

2014年7月5日土曜日

波止場の哲学者





哲学とは学説ではない。活動である。
哲学とは理性による思考の明晰化である。
哲学という活動の本質は解明することにある。


・・・とは、過日の「哲学」の定義の再説。
すなわち、哲学するとは特別な事ではない。
ソクラテスのように市井の床屋談義からも生まれるし、
象牙の塔に立て篭もり、ただただ沈思黙考する近寄りがたい姿のみを想像することは
けだし正鵠を得ていないのは確からしい。


労働の中から思索を・・・・


彼は放浪の季節労働者であった。
サンフランシスコに定住した際には、港湾労働者であった。
人は、彼のことを「波止場の哲学者」と称した。

彼は、壮大な知の体系や大向こうを唸らせる仮説を唱えたわけではない。
平明な言葉で思考の結果を明晰に述べただけである。
多からぬ著作は、翻訳され、手に入れることは容易である・・・が、
あまり売れているようには思えないが、絶版にならないところを見れば、
息長く読み手が存在するようである。

読み落としていたのは、汗顔のいたりであるが、ハンナアーレントと
交点があったようだ。
1950年代のころ。アイヒマン裁判のレポートに先立つころ、約十年。
彼女はかれのことを「オアシス」のような存在だという。
絶対悪の権化たるアイヒマンを陳腐な悪と言い切り、
ユダヤ人社会に衝撃と憤怒の嵐を巻き起こした際に、同じユダヤ系である沖仲士が、
どういう感想を持ったのかはわからない。
言えることは、狂乱的に罵らなかったことは確かだと思う。
彼の警句はラジカルである。
しかし、物言いは、優しく思いやりがある。
ハンナアーレントは、それを「オアシス」と比喩したのでしょうか?

・・・・

そうだ。少しはこの哲学者の紹介もしませんといけませんねえ
ある程度は有名ですが、だれでも知っているかどうか・・・・ エリック・ホッファー。アメリカンです。

7歳で失明、15歳で突然視力を回復。
18歳の時に天涯孤独となり、28歳で自殺未遂。

・・私は死ななかった。だがその日曜日、労働者は死に、放浪者が誕生したのである・・という彼は、
10年に及ぶ放浪生活へ踏み出し、数々の出会いと別れを選び取りながら、
劇的な生涯を送ることになる。

トマトの収穫、ホップ摘み、砂金発掘などの季節労働。
そのかたわらで、化学、数学、鉱物学などあらゆる学問にまい進し、読書と思索を重ねていく日々。
そんなある日、彼は町のレストランで大学教授と出会い、
これを機にドイツ語翻訳や研究の手助けなどのアルバイトをはじめる。
あまりに研究熱心な彼に、教授は研究所での職を用意してくれるのだが、
彼は、ふらりと季節労働者の生活へ戻ってしまうのだ。


・・慣れ親しむことは、生の刃先を鈍らせる。おそらくこの世界において永遠のよそ者であること、
他の惑星からの訪問者であることが芸術家の証なのであろう・・

自己と徹底的に対峙し、自己欺瞞と戦いつづけたエリック・ホッファー。
まず学ぶべきなのは「学問」そのものではなく、彼が貫いた学問への、
そして、人生への「姿勢」かもしれない

・・・とどなたかの紹介文で代用します。

2014年7月4日金曜日

自慢できる肩書




個人的な趣味嗜好だけ言えば・・・

天下の素浪人
無頼無宿人

なんかがお好みですが、社会通念的には

住所不定無職

犯罪者予備軍だと指弾される。
従って、どうせなら「哲学者」と名乗りたいし、そう思われると
自尊心もくすぐる。
しかし、雑文を書き散らす売文の徒の分際で「哲学者」を自称する勇気たるや
あるいは、厚顔さには感服する(笑)


そもそも哲学とは何か?
明治の初めに西周先生が命名したそうであり、概念定義だけで大部なご本が
かけそうである。
あれやこれやと蘊蓄を傾けるようなものでもないので、
一番明快・・と思われるヴィントゲンシュタインの説に従う。


哲学とは学説ではない。活動である。
哲学とは理性による思考の明晰化である。
哲学という活動の本質は解明することにある。

・・・だとすれば、蝸牛庵だって、哲学者と名乗ってもあながち
おかしいことではない。勇気とか厚顔という現象でもない。


池田晶子という夭折した才媛がいた。
四十代半ばの生涯をもって「夭折」は如何と思うが、彼女の「哲学書」に身震いした頃は三十代だったので、あながち的外れでもない。
知性、教養、才能ある女性を「才媛」という。
辞書的には「美人」の意味合いはない。
しかし「媛」だけとれば、美しい女性である。
才媛なる用語は結婚式の新婦の誉め言葉程度でしか使われないが、
その多くの場合は、才でも媛でもない(笑)
実のところ、この「才媛」なる言葉は、彼女のためだけの言葉なのです。


彼女の肩書は「哲学者」
人物紹介的にある引用をすれば・・・


・・・専門知識や用語に頼ることなく、日常の言葉によって「哲学するとはどういうことか」を語ることで・・・現代の思潮や流行している解釈に迎合せず、自分の考え、自分の言葉だけで存在と宇宙について思考をめぐらし、・・・


彼女がヴィントゲンシュタインに私淑したとは思えないが、まさしく、彼の言うところの「哲学っていた」美女なのである。
神々の愛でしものは早く死ぬというが、それは違う。
アホだと時間がかかることを、さっさと片付けた、無駄に馬齢を重ねなかった
美しい生涯なのです。



さて・・・・実は、今までが前書きなのです(笑)
今日のお題は「波止場の哲学者」について共感と愛惜をもって語ろうとしたのですが、またいつかのことにしよう。

2014年7月3日木曜日

仕事は人間にとって必要を満たす手段にすぎないか?

 
二十歳前後の若者にかような論文出題する大学入試システムとは
いかなるものなのか?
神童の名をほしいままにした蝸牛庵でもいささか手強い。
だって、神童って「二十歳になればただの人」ってことです(笑)


まあ、こんな問題で高得点を取らないと、グランゼコールには、進めないし、
社会を動かすエリートにはなれない。
しかし、大学に進もうかなあって考える高校の最終学年でも、
一番重要視されるのが「哲学」である。
一体何を教えるのかイメージしにくいが、
簡単にいえば「論理的に推論することを徹底的に鍛える脳髄の体操の場」


人間とは論理も情緒も多岐多様であり、対等に付き合うには理性しかない。
論理的に客観的に説得し理解させるかが社会のありよう。
目配せや阿吽の呼吸なんかに依存する余地はない・・と考える国ではある意味当然である。
それは高校学校の最終年度で唐突に登場するわけではなく、
小学校ですら、自分の考えを正確に表現できるように、
古典や文豪の詩歌、散文の暗記を徹底的に叩き込まれる。


趣旨は分かるが、一体誰が教えるのだ・・・?
三尺さがって影を踏んではいけないと思わしめる教師に恵まれなかった者には想像を絶するが、
バカロレアを優秀な成績で通過した知のエリート・・・
ベルグソン、サルトル、ストロースなんかは、高等学校の哲学教師を経験している。


エリート教育には・・限らずだが、功罪がある。
しかし、エリートとして育てられた人材のいない社会とは、貧相なものだ。
旧制高校から帝大のルートが存在せずして近代日本は存立し得なかった。
教育に基づく国家の創出と拡充こそが、国家発展の最短ルートであることは、
論証するまでもなく歴史のおしえるところである。
エコルポリテクニック(理工学校)は、皇帝ナポレオンの創設とされるが、
彼は校旗を授与しただけで、創設したのはフランス革命の革命政権である。


近代におけるエリート教育の歴史を、グランゼコールに求めるのであれば、
二世紀の時間が流れ、時代も社会も変わった。
狂気や情緒や一時の激情ではなく、
知性と論理、理性で社会を形成すべきことには異論がなくとも方法論は百家争鳴。
なら、まだいいが、議論すらできない、しても決められないのでは、国家に明日はない。


政治にせよ経済にせよ、良きものを生み出し、時代を切り開くのは人である。
人を作るのは教育システムである。
単なる慰安と陶酔を供するだけの産業が隆盛を極めることも
ある意味の「劣化」であることだけは、声高に主張する。
時代の発展は専門化を必然とするが、そんな時代こそ、
広い視野と歴史に学ぶ判断力を必要とする「理性の時代」だと思うのですが・・
人文科学系老人の愚痴あるいは戯言かな(苦笑)


ところで、冒頭の「問題」の模範回答ですが、
柏倉康夫さんの「エリートのつくり方ーグランゼコールの社会学」
41から49ページに模範回答なるものが載っています。
ここまで、設問を分析し、論点を抽出し、過去の著名な哲学者の論を
参考にし批評し、最後に自分の意見を述べ`ないと正解とならない・・・


フランス人でなくてよかったなあ(笑)
それに今やグランゼコールを出ても二割は、就職浪人だそうです。


2014年7月2日水曜日

NY、パリ、ローマ




舞台装置として申し分がなく、ウッデイアレンは、そてぞれの街を舞台に洒落た
ドラメテイをつくっています。
しかし、この才人は、三箇所まとめて。


https://youtube.com/watch?v=Oe5Nkb6UnQE


かような凝ったシナリオになる映画は、注意していないと「錯視」に
引っ掛かる。
案の定、あれって・・・

惹句風に言えば、それぞれの街のそれぞれの愛。
それぞれに相応しく・・・
確かにそう言う雰囲気です。

草食系と肉食系の組み合わせというのは、もの足らないだろうなと
思っておりましたが、時代はやっと、蝸牛庵に追いついてきたようです(笑)
洒落た街には「格差愛」が似合う。
格差も様々あるが、知性の格差は前提において論外
バーナードショーとイサドラダンカンの組み合わせは皮肉な台詞しか生み出すものはない。
資産あるいは収入格差?
これは「ある愛の詩」で、芋臭さを論証すみ。

富裕層の女:愛があればお金なんて・・・
貧民層の男:お金持ちの毎度のセリフですねえ


やはり、美学に叶うのは年齢格差(笑)
婆さんと若いオトコでは、ジゴロの世界
やはり、初老オトコに美熟系。

リーアムニーソンにオリビアワイルド・・・・なかなかいい組み合わせ
しかし、明日も幸せかどうかは、エンドマークの彼方でしか分からない。




この監督さんは、

007シリーズのシナリオ手がけ
ミリオンダラーベイビーの脚本でオスカーに輝き
クラッシュで、同作品賞も・・・・

彼の監督映画は、餓鬼が足を運ばず、観客も良質なので
プレミアムスクリーン上映を探して・・・でした。

2014年7月1日火曜日

エコロジカルなリフォーム

 
リフォームをする際には欠かせないのが・・・

 
トイレ掃除不要なウオシュレット
ふろ掃除不要なバスタブ
ガラス拭き不要な窓ガラス

 
なんか探しまくることが一番
面倒なお掃除3点セットからの開放ですよ(笑)
三ヶ月掃除不要なトイレはあるとのことであるが、ほかは知らないし
本当に掃除をしなくても・・・・(?)



大昔のことだが「洗剤のいらない洗濯機」が発売されたことがある。
電解水+超音波洗浄で理論上は正しいのですが、国民生活センターの報告では・・・

 
1.洗剤ゼロコースを搭載した洗濯機の開発は、
  社会に対して洗剤の問題を提案した物としては評価できる
2.シミ汚れは洗剤ゼロコースがよく落ちた
3.一般的な、日常の汚れは、汚れ落ちは悪く、満足できる結果ではなかった
4.明らかに布は傷む
5.水や電気の使用量も多い
6.消費者は環境への関心は高いが、実際は1回着たら汚れていなくても
  洗濯するというスタイルが8割を占めている。

 
家電業界と洗剤業界との持ちつ持たれつの関係だし、いささか信頼感にも影響し
発売は闇沙汰になったと思います。
言いだしっぺは、S電機でしたが、哀れ出る釘は打たれて会社が消滅しました。
  
  
しかし、よくよく考えれば  
洗剤業界も、かような洗濯機が発売されれば、
企業人としての矜持ってあるわけですから・・・・間髪いれず 
 

来年にもに「洗濯機のいらない洗剤」を発売します!
消費者のみなさま。
より正しいご「洗濯」・・・をって 大キャンペーンをやるべきだった