2014年6月30日月曜日

グレン・グールドが、ブリテイシュポップスが好きなわけ





60年台のブリテイシュポップスなんて、いまやレトロを通り越し

ペトラクラーク

彼女は1932年のお生まれですから・・・御年??
WEBを読む限り、まだ年金生活者みたいです。
大活躍をしたのは、60年台。
以降、うんともすんとも・・・まさしく「時分の花」です。




The Search For PETULA CLARK


なる物議をかました文章があります。
かの天才ピアニストが、どういうわけか彼女の歌が大好きで・・・恋のダウンタウンなんです。


外向性で極まりつつある成熟の極みであり、
とりわけ Down-town!って唱う部分の二音の下向(ド→ソ)が
完全四度を構成するところが、ヴェーベルンのピアノのためのヴェリエーションの
鏡像である・・・



なんて、よく意味がわかりませんが、凄そうです。
その一方で、バランスをとるかのように、ビートルズを悪し様に批判し、
彼らの曲は「楽器のカラクタの中に埋まっている」・・・とまで

こっちは、まだ理解可能です。
まあ、クラークを持ち上げたというより、ビートルズ批判のアンチテーゼとしてもちあげたのかも
理由はともかく、天才と趣味があうのは嬉しくて・・・笑


60年代と言えば、ポップスの黄金期でした。
だからでしょうねえ・・・年老いても公演なんかやると、老若男女貴賎都鄙で会場はいまでも一杯。



リンク映像はコメントを・・・・・

2014年6月29日日曜日

日本史を読み解く「三原色」




そんな大層なもんでもないが、日本史って本当に面白くない(笑)
が、反面教師にはなるって・・・・



まず「和の精神」

聖徳太子十七条憲法の十七条に曰わく
 
  それ事は独り断むべからず。
  必ず衆とともによろしく論うべし。

独断専行ではなく大衆討議にかけなさいって・・・
みんなで議論すれば、いい知恵が出る場合もあるが、
多くの場合、無難な結果に終わる。
最悪は「もう少し様子を見よう」って(笑)
これって「決められない政治」ってことです。


次が「前例墨守」
問題先送りとかそんなひどい例でなくとも「当たり障りのない方策」に落ち着く。
妥協の産物ってそんなもんで、先例踏襲で、大胆さとは程遠い。
葡萄とメロンを足して二で割れば、葡萄がメロン程度収穫できるって知らないのかねえ。

余の新儀は未来の先例

なんて、後醍醐天皇のようなワンマンだけが言うせりふ。
そんなワンマンでも「前例踏襲」の呪縛にとらわれてみたいだし、
なんせ、豪腕ではあったが、時代と未来を見通す能力がなく
見当違いの判断が多すぎる。


みんなで決めるという「民主手続」が王道と思えば、
独裁者というか絶対統治者は、煙たがられるし、末路哀れな結果に
おわることが多い。
義教、信長・・・そもそも、有能な独裁者は数が少なく、
多くの治世者は凡庸な調整型君主である。


天下大乱の時に、
団栗レベルが鳩首し、のんびりと話し合いで前例を参考に凡庸な意見取りまとめ・・・
なんかじゃ間尺に会わないと思うのですが、
DNAというのは簡単には変わらないみたいです。



網野善彦さんが力説するのですが、百姓とは農民ではなく多くの職能階級である。
間違いだというつもりはないが、
社会を長く支えたのは「農業」であったことは事実であり、
お米=基軸通貨 だった。

問題は、ある時から(室町時代かな・・)お米=商品 となったこと
つまり、商業の発展により(資本主義の勃興といってもいいが)、
結果として、通貨=商品 となってしまった。


この大きな変化を感じ取り、大胆に対応した統治者と、そうでない者がいる。
江戸時代は、各藩(今で言えば各企業)とも新田開拓等でお米の増産に努めた。
しかし、商品の流通量が増えると価格が下がる。
一方で、お米以外の殖産興業の政策誘導を大胆にやらないもんだから、
米の価格は低下し、相対的に諸物価は高騰する。

ここで、中世のユダヤ人のように虐げられていた備前屋の活躍する場が到来する。
先安感のある米は、たまたま先物市場があるから、空売り。
相対的にあがるだろう商品(諸式)は、買占め。
これを繰り返せば千両箱の山にならないほうがおかしい(笑)

 
財政が逼迫する統治者は、鳩首し・・・倹約と更なる増税
いままで歯牙にもかけていない商人を搾り取ろうって前例のない発想は
まったく出来ない。

 
江戸時代の「なんとかの改革」って、みんなこれですよ。
流れに棹差してうまくいくはずがない・・
でも、時代の抵抗勢力に人気があるのが不思議です。
荻原重秀の管理通貨制度や、田沼意次の重商政策を否定し、
ひたすら農本主義まっしぐら・・・
 
 
うまくいくはずがないし、改革派とつるんだ「悪徳」商人が、
桜吹雪だか葵ご紋にひれ伏すざま見て喝采をあげるようでは、
日本の明日は暗い。
この限りにおいては、TVから時代劇が消えたのは結構なこと(笑)
 
一方で、西国の外様大名は、幕府以上に困窮しちゃたもんで、
カッコつけてる余裕もなく、なりふりかまっていられない。
なもんで・・・

若輩者の大抜擢(年功序列人事の打破)
借金の踏み倒し(DIP型民事再生)
換金商材の開発(新規事業等産業の多角化)
密貿易(貿易自由化)            ・・・なんて、禁じ手だろうがなんでもあり。


明治維新って、別に黒船来襲が主因ではない。
間違った経済政策・・にならざるを得ない日本史をつまらなくする三要素が
革命を起こしたのであり、三要素からの解放が革命を成就した


2014年6月28日土曜日

レデイ・MURASAKIが「HIKARU」を書いた本当の理由





プラダを着た悪魔って映画がありましたが・・・
悪魔には欧米ブランドよりも「十二単」がよく似合う。
なんちゃって、ファッションの格付けでは番外最高ランクですから・・・
紫源氏は、多くの作家(とりわけ男流ではなく女流)の創作意欲をかきたてるらしく
与謝野、円地、田辺、瀬戸内、大塚・・・・現代語訳版に枚挙のいとまなく、
異聞的に、視座を変えての翻案も多々。
六条御息所視点の林版とか、なんといっても、最高峰は橋本窯変源氏
さらには、九人の作家がそれぞれの登場人物(当然に女性)を主役にオムニバス風に・・とか
この激戦区に内館牧子が乱入・・・しかし、これがまあイケテマス(笑)
さらりと読み流しましたが・・・やっぱり


源氏で登場する女性連では、総選挙なんかやれば、

若紫
夕顔
玉鬘
六条御息所  ・・・なんかは絶対に上位に来るし、逆に、かすりもしないのが

葵の上
軒端の萩
近江の君

そうそう、忘れてはならないのが、大悪魔の弘徽殿の女御。
帝の正夫人で長男の母親。家柄も最高で、迫力も気力も十分あったみたいです。
 
 
なんちゃって・・・この大悪魔は
 
可愛げのある女が価値ある女だとは思っていない。
そんな女は・・・
 
と喝破します。
悪役で悪魔だから、敢えて・・・なんてレベルでは読み筋が甘い。
その悪役で悪魔をあえて、センターに据えての異聞譚 
 
 
 
改めて思い返すに、源氏にはろくなオンナが登場しないし、そのろくでもないオンナと
係わったHIHARUの不幸な生涯記録が、源氏物語。
 
 
作中で内舘は、ヒカルに述懐させるのです。

  
可愛いだけのオンナはすぐに飽きる
優しくて細やかなオンナは、段々に鬱陶しい
教養と知性に富んだ女は、やがて肩が凝ってくる
すがりつく頼りなさなオンナは          ・・・・足が遠のく
 
  
たった、これだけを言いたくて、紫は、あの長編恋愛遍歴小説をかいたのかな?
ちがうなあ・・・
炎上を覚悟に敢えて言いきれば(笑)


可愛いオンナは、馬鹿でもなれるが
能力のあるオンナは、怖いオンナでないとなれない   
・・・かな

 
紫が、可愛くて優しく細やかで・・・というイメージはない。
教養や学識は相当レベルみたいですが、誰かにすがりつく頼りなさもない。
知性はどうかかと言われれば、清少納言には及ばないが、匹敵はする。


そんな、実生活では不幸だったような能力あるオンナの
千年の日本文化史を壟断した復讐譚が、ヒカルの物語
なんにしても、芸術の世界では、輝くのは悪であり、悪の華こそ芸術の糧


 




2014年6月27日金曜日

文学に行こう!

混迷する今、
最も切実な問いかけは「我々日本人とは何者なのか?」
その答えは「文学」にある・・・らしいが(苦笑)


池澤夏樹が個人編集する日本文学全集がリリースされるようです。
読み通せば、我々の自己存在意義が明らかになるらしい。

二千年近い日本の精神史を解明するキーワード的な作家・作品とは・・・


---

古事記 池澤夏樹 訳   

口訳万葉集 折口信夫
百人一首 小池昌代 訳
新々百人一首 丸谷才一

竹取物語 森見登美彦 訳
伊勢物語 川上弘美 訳
堤中納言物語 中島京子 訳
土佐日記 堀江敏幸 訳
更級日記 江國香織 訳

源氏物語  角田光代 訳

枕草子 酒井順子 訳
方丈記 高橋源一郎 訳
徒然草 内田樹 訳

今昔物語 福永武彦 訳
宇治拾遺物語 町田康 訳
発心集・日本霊異記 伊藤比呂美 訳

平家物語 古川日出男 訳

能・狂言 岡田利規 訳
説経節 伊藤比呂美 訳
曾根崎心中 いとうせいこう 訳
女殺油地獄 桜庭一樹 訳
仮名手本忠臣蔵 松井今朝子 訳
菅原伝授手習鑑 三浦しをん 訳
義経千本桜 いしいしんじ 訳

好色一代男 島田雅彦 訳
雨月物語 円城塔 訳
通言総籬 いとうせいこう 訳
春色梅児誉美 島本理生 訳

松尾芭蕉 おくの細道 松浦寿輝 選・訳
与謝蕪村 辻原登 選
小林一茶 長谷川櫂 選
とくとく歌仙 丸谷才一 他

夏目漱石 三四郎
森鷗外 青年
樋口一葉 たけくらべ 川上未映子 訳

南方熊楠 神社合祀に関する意見
柳田國男 根の国の話 他
折口信夫 死者の書 他
宮本常一 土佐源氏 他

谷崎潤一郎 乱菊物語、吉野葛 他

宮沢賢治 疾中、ポラーノの広場 他
中島敦 悟浄出世・悟浄歎異 他

堀辰雄 かげろうの日記 他
福永武彦 深淵 廃市 他
中村真一郎 雲のゆき来 

大岡昇平 武蔵野夫人 捉まるまで 他

石川淳 紫苑物語 他
辻邦生 安土往還記
丸谷才一 横しぐれ 他

吉田健一 文学の楽しみ ヨオロツパの世紀末 他

日野啓三 向う側 他
開高健 輝ける闇 他 

大江健三郎 人生の親戚 狩猟で暮したわれらの先祖 他

中上健次 鳳仙花 半蔵の鳥 他

石牟礼道子 椿の海の記 水はみどろの宮 他

須賀敦子  コルシア書店の仲間たち 他

近現代作家集 

近現代詩歌
               
日本語のために 
おもろさうし マタイ伝 日本国憲法前文 他

---

部分的に「見識」を讃えつつ、あちこちに「異議あり」!

王朝詩歌を「百人一首」という愚作集に代表させる反面
丸谷才一の「新々百人一首」でバランスをとるのは座布団一枚。
でも塚本の「清唱千首」ならば、十枚はあげるのに・・・
負け犬酒井の「枕草子」はどんな出来栄えか興味がなくもないが・・・
橋本治には到底及ばないだろう。

太平記は相変わらず、戦記ものということで評価が低いが、
後世への影響力は無視できないものがあリ、この辺りは見識を疑う。
能狂言歌舞伎あたりは、相当に汗かいた模様(笑)
江戸の好色本系は、自分自身の評価が定まらないので、意見は保留


さて、問題は明治以降現代に至る作家・作品。
それこそ評価が決まるにはいささか時期尚早ではあるが、愚見をのべれば・・・

樋口をいれて、川端(ノーベル賞作家)三島・芥川を落選させるとは勇気がある。
塩野七生ではなく須賀敦子を入れるところは、辛口には珍しく褒めておこう。
南方、柳田、折口、宮本のカップリングは素晴らしい。
中島や中上を外すようだと編集にならない

第三の新人クラスでは、安部公房は落選ですか(涙)
戦後政治闘争史を代弁させるには高橋和巳なんですがねえ・・・
司馬遼は、文学じゃないってことかな
ムラカミはどうしたんでしょうか
日野啓三や吉田健一は・・・全くわかりません(後者は縁故採用・・・まさか!)
石牟礼を選ぶならば、ほかにって気がしないでもないが、すぐに思いつかない。
只今思案中。












2014年6月26日木曜日

五歩に一楼、十歩に一閣


江戸時代は、外食天国だったらしい。
江戸後期の飲食店の数が、八百善から始まり屋台の蕎麦屋までふくめ七千軒程度。
当時は単身赴任なお武家やら、食い詰めた裏長屋の町奴がごまんといました。
オンナと名がつけば、相当なブスでもモテタというから、
食い物屋も玉石混交だった可能性が高い。

いまでも、その伝統なのか、石を投げれば食い物屋にあたるのが、今の東京。
数だけ言えば、六万軒あまりで、人口十万人あたりで、五百軒。
いわゆる「飲み屋」は別カウントというから恐れ入る。
世界標準的に見て、異様に多いように思えます。


 

内藤湖南先生は「日本史は室町以降だけ学べば良い!」と喝破する。
しかし、およそ食い物に関しては、江戸以降で十分だが、
比較対比的には、室町食文化のお勉強も大事と思うので・・・

さて、戦国武将の夕食を再現すれば、お皿の数だけは、毎夜たくさんです。
主菜用に三皿、あしらえなんかに小皿が三つばかり。
あとは、ご飯茶碗ですが、汁椀はなかったみたい。
主菜は日本古来の三代珍味。
梅干、鮑、水母・・・ってむかし、なんかで書いたかな?
あしらえは、塩、酢、味噌の三点セット。

別に冗談じゃなくて、戦国武将の晩餐とはこんなもんです。
長屋の御家人くずれの一椀一汁一菜みたいな品さがる食い物とは一線を画する。
平安貴族の流れを汲む典雅な御食事なんですが、いま感覚からすれば、ちょっと耐えられない。

奇異に思うのですが、醤油がないこと。
江戸時代の随筆なんか読んでますと、この時代は「食材物革命期」だった。
  
清酒
醤油
出汁
  
これらの食材を抜きにした和食の風景って・・・ひどく違和感があります。
その意味で、文化遺産たる「和食」。その歴史は200年程度に過ぎない。

 
まっとうなフレンチは16世紀に始まり、中華料理の真髄は更に歴史を遡り・・を
思えば、和食を含めて三大料理と自慢するのは・・・夜郎自大という。
そんな設問には・・・

 
フレンチ
中華
その自国民の料理   って定義するのが、まあスマートってもんです。

 
それに、食い物に対する熱心さ・・・というか執念にかけるようです。
職人のあくなく探究心なんて、その辺のやらせサイトの言い草。
生き物と名が付けば、なんでも食材にする。
いざとなれば、我が子でも・・・って、
易牙を筆頭に、中華料理のコックさんはど外れているし、
そこまでの情念がないと三大の名に値しない。


浅学非才ながら、食のエピソードに関する限り、倭の風景は貧相です。

2014年6月25日水曜日

足し算の力学、引き算の美学

足し算の力学、引き算の美学


渋谷の西外れあたりに、池尻大橋という駅がある。
浅学菲才にも、池尻と言う名前の大きい橋に由来すると思い込んでいた。
どうも、池尻と大橋と言う二つの地名の単純足し算らしい。

かつては、

 
国立=国分寺+立川
大田=大森+蒲田

 
と言うような引き算方式だったし、経国済民から、経済という造語も出来た。

どうも漢字力の低下に起因するようだ。
クイズ紛いな漢字検定の勉強では、本来の漢字力は身につかない。
やはり、四書五経の原典に立ち帰る必要がある。
面倒臭いもんで安易にカタカナに流れるのが、小役人の発想。
システム技術者も同病なので、批判できる立場でもない。
しかし、安直な足し算だって、それなりにましな場合もないではない。

 
 
喜連瓜破
四天王寺夕陽ケ丘

 
 
これはこれで、美しい。






2014年6月24日火曜日

泣かないで・・・・



強くなれ!
負けるな!
大人になれ! ・・・・

って叱咤激励する時代は終わった とまでは言わないが
変わったらしい。
あの「歌姫」が、ゴレンジャーもどきな群ドルに楽曲を提供するとは
末世末法ではないか。


http://www.kasi-time.com/item-71749.html


しかし・・・・なにやら、世の中全体が軟弱になったのか
一部に共感の涙の大雨らしい。



https://youtube.com/watch?v=AMLCyqC8jfA



涙もろい蝸牛庵には、毒だ(笑)
でもでもでも・・・ツラツラ思うに、時代には男時、女時がある。
武張った時代と嫋嫋の時代
どっちがいいということではないが、
やたらと進軍ラッパを吹く時代も、妥協と恭順、叩頭の時代もよくない。


しなやかに強靭に・・・・


時代の語り部の行間は、実のところ含蓄深いのです。
ももいろクローバーZのギャル達や、その取り巻きのオタ芸族はわかっていただけたかなあ。
しかし、実のところ、音程のずれた合唱を聴いただけで、中島みゆきさんを想像することは不可能に近い。
サビだって、ユミキブシには縁遠い。




語り部分をジックリと「よめば」、慄然とし、歌姫の情念がほとばしる。


リンクがうまくはれてませんので、コメント欄のリンクから入ってください。



2014年6月23日月曜日

重ねて・・・カップル




麒麟
鳳凰
饕餮
     ・・・・

さあ、共通項はなんだ?


言わずと知れた・・・手書きじゃかけない漢字(笑)
・・・ということではなく
雄雌とかのように対で霊獣(あるいは凶獣)を表記しているってことです。
霊獣といえば、あとは亀と龍なんですが、これらには雌雄の区別がないらしい。
もしかしたら「両性具有生物」なんでしょうか?
カメもタツも外見的には「爬虫類」で変温動物です。
だからといって、哺乳類や鳥類より下等ってことでもなく、
同じ「動物界の脊索動物門の顎口上綱」に所属する・・ほとんど意味不明のママ引用・・(苦笑)


まあそんなことはどうでもいいんですが、
対で例えた場合に・・・どうして「龍虎」なのかってことがよくわからないって話題。

 

今や、ラーメン屋さんに多い屋号ってところまで落ちぶれましたが、
そもそもは、技量卓越な実力伯仲の両雄を例えていう慣用表現です。
しかし、方や伝説上の席次の高い霊獣とそこいらあたりの野獣。
ワールドシリーズで四たてをくらったり、万年最下位な「トラ」に
ツロクさせるのは・・・いささか貫目不足で、龍様に失礼ってもんです。
百獣の王と言えば、獅子(唐獅子)
これも霊獣の一つです。
だから、百獣と百花の頂点を並べて、唐獅子牡丹・・・ってことで座りがいい。

一方で、虎には竹(・・・だそうです)
歳寒三友の一つで、松竹梅と言い換えてもいいのですが、
清浄感のあるすっきりとした植物で、イメージとしては悪くない。
しかし、松と梅とどっちが上座か知りませんが、竹はどうもトップではない。



どうして「龍獅子」っていわないのか??
吉祥図案にはあるのですが・・・・よくわかりません。


そこで、ある「仮説」・・・

 
 
青龍と白虎の対
 
 
 
そうです・・・春秋優劣論っていう古典的な問いかけに端を発する対表現なんです。
亀雀の対句(玄武と朱雀)でもいいのですが、冬と夏の比較ってねえ・・・
それに落語家の名前風で、可笑しみはあっても迫力感がないでしょう。



もうちょっと言えば、
ホワイトライオンとホワイトタイガーは、どちらも白の毛皮ですが
似て非なるものがある。
ホワイトタイガー(白に黒縞)は、希少種で「霊物的」とされます
が、ホワイトライオンは、シロクマくんなみの存在で、いまでこそ珍しいとされますが、
氷河期では当たり前。
白が保護色だった時代なのです。


ここまで、衒学的思索を突き詰めると、積年の疑念が氷解するってもんです
で、なにか役立つかって・・・(苦笑)



そんなことを思い浮かべるようだと、コペルニクス的な成長も発展もない。
文化とは不合理なものですが、
凝縮し純化させると「不用の用」だか「無用の用」を育むものだ。
本来的に「学」は文化であって、文明ではない。











2014年6月22日日曜日

陳情でもあったのでしょうか・・・上限金利が






金員を貸し与えてその対価を頂戴する。
まっとうな商売である。
別の見方をすれば、金利とは「貨幣の値段」とも言える。
物には価値があり、価値が値段で表現される以上、これまたもっともな話である。


律令制において「出挙」という利子制度があった。
貨幣経済以前の時代なので、種籾を貸し出して、50%から100%を上限に
収穫量から返済を行った。
一見「闇金」並みの利率と見えるが、一粒からでも丹精込めて育てれば、結構な収穫量になり
結果合理的な利息水準に収斂したと思われます。


これは、金利の水準は何が妥当か・・・という難問への回答を示唆します。
カネがカネを生むことは、古代ギリシア哲学者や中世宗教者がいうように悪いことではない。
少ない借財でも大きな果実を生むのであれば、相当な利子を支払っても齟齬感はない。
現代は一般には低金利時代であると言われる。
が、民事法定利率は5%。商事法定利率ですら6%
利息の上限は(貸金により異なるが)15%から20%程度
貨幣の値段がそれだけ下がったということであるが、
むしろ貨幣が生み出す価値が貧弱になったと思うほうがリアル感がある。
資金の調達方法が多様化したという理由もあろうが、
資本主義のバイタリティがなくなりつつある・・・という恐怖


さりながら、様々な手口の「闇金」なるものが横行しているらしい。
法外な利子を支払ってもその価値があると思えば払えばいいが、
多くの場合は、背に腹はかえられないということだろう。
申し訳ないくらい冷酷な言い方をすれば、闇金被害者は頭が悪いのです。
法律は狡猾な者の味方だといわれますが・・・

闇金契約は公序良俗違反
闇金貸付金は不法原因給付

だと司法の見解は確定しています。
利子はもとより元本だって返済義務はない。
要するに、黙って借りて踏み倒せばいいのです。
闇金対策として「上限金利引上論」なんて論外なのです。

TVCMの「貸したお金が帰ってきます」キャンペーンも結構ですが、
それよりも「闇金の借金は踏み倒しましょう!」の方が効果がある(笑)



何事にも反作用がある。
闇金も街金も貸さなくなったら、商売が潰れる・・・
致し方ありません。
倒産は資本主義の健全な新陳代謝び過ぎません。

贅沢がしたくて、街角に立つオンナが増えるかもしれないが、
それだけはやめた方がいい。
ウリ行為もある種の「不法原因給付」ですから、タダノリされて代金を
払ってもらえなくとも、文句は言えない(笑)



老婆心ながら、半知解な法律を振り回すのは、ケガのもとである。
闇金相手に借金を踏み倒すまではいいとしても、
代わりに命を取られるかもしれない
きれいなお姉さんが画面から語りかけているでしょう・・・


ご利用は計画的に・・・・



















2014年6月21日土曜日

地上の楽土なるものに・・・行ってみたい

 
 
この世は穢土に決まっている。
いかなる権力や財力を持ってもいかんともし難い。
だから・・・仏教的には、厭離穢土・ 欣求浄土なのです。
そういう意味での宗教というのは平明で正直である。
 
しかし、イデオロギーなのかマヌーバーなのか
この世の天国を説く・・・敢えて言いますが・・・「詐欺師」がいる。
偉大なる将軍様っていうよりも、お先棒を担いだペンごろとかいろいろ。
 
しかし、絶対を夢想する者たちは、宗教は阿片だと思っている、
実のところは、近親憎悪にすぎないのですが、
行きがかり上もあり、この世に楽園が実現すると信じている。
 

言ってみれば・・・

彼岸の楽土を志向すれば、宗教者
此岸の楽土を希求すれば、革命家

 
しかし、仲の悪い双子の兄弟ですが、なかには一卵性のシャム双子もいる。
宗教的革命家というか革命的宗教者というか・・・
 
そう・・・「ひのもと救霊会」
 
あり得ない夢想に向かって暴走し、挙げ句の果てには
冒険主義的一揆で、土崩瓦解してゆく。
末路哀れってレベルじゃない陰惨な終末。
 
  
別にモデル小説ではないが、
自ずと、京都のハズレの弾圧された新興宗教団体を彷彿とさせる。
多分に迷惑な話でしょうが、作者は、碩学吉川幸次郎の愛弟子。
漢文人としてのアウトサイダーとして、
小説なんかに手を染めたもんで、師はいたくご立腹されたらしい。
そんじょそこらの芥川賞作家が束になってもかなわない筆力にもかかわらず、
文学賞と無縁だったのは、きっと師匠の差し金
あるいは、勝手に忖度した出版社の思惑だろう。
 
 
彼、高橋和巳さんは、大学で、大島渚と同期生だったらしい。
お友達だったかどうかは知りません。
一人はペンで、今一人はカメラで「絶対を夢想」した。


彼岸の地で再会されたのでしょうが、そこって浄土ですか?
あなた方が夢見た「愛と希望の楽土」を見つけましたか?
穢土で、泥水安酒にどっぷり浸かっていた連中の成れの果ての住処が、
とても「楽土」とは思えませんが・・・


--

むかし、山梨県の寒村で、宗教の皮をかぶったテロリスト集団が、手入れ受けました。
不謹慎ながら、その時に思い出したのが、この「邪宗門」だった。





2014年6月20日金曜日

世界三大・・・・がっかり



世界最高水準の研究所の俊才の高温超電導研究の大部分が不正であった。
国家的詐欺というべき欲目の亡者と化した韓国のES細胞の捏造研究者がいた。
そしてSTAP細胞「不正」があった。



いずれもが、科学技術の進歩に期待したヒトザルの夢を破り・・・
三大不正というより三大「がっかり」というほうが適切である。
しかし「三大」というほど歴史を揺るがす大事件なのか?
スキャンダルには違いないが、学問の今と未来を瓦解させるようなものでもあるまい。
狗は吠えても歴史は進むのです。



しかし「旧石器発掘捏造事件」は、日本の考古学なるものを壊死させてしまった。
ムラの住民はそんなつもりは毛頭なく、検証報告書を出したことで禊は
終わったと思っているのだろうが、発掘全体を疑えばきりがない。
主犯とされるのが藤村某。
神の手と畏敬された発掘のプロ。掘れば出てくる新発見。
この日本に綿々たる旧石器時代があったとされ・・・
大昔の高校での日本史の授業では、新石器時代から始まったものだ。

いつの間にか、役立たずな知識だと思っていたが、あに図らんや(苦笑)
日本の歴史なんだから、歴史学者が扱う時代から始めればいいのですよ。
先史時代なんかに授業の時間を割かれるから、近代史や現代史が教えられない。

さておき・・
藤村が四半世紀に渡り繰り返したとされる捏造発掘で出土した石器は数千点。
多くのヒトザルを長年騙すことはできないという経験則に照らせば、
世間様はすべからく「アキメクラ」なのか?
疑問を呈した学者も多々おられたようですが、村八分もどきの処遇を受けたらしい。
学会の重鎮にとっても便利で都合のいいドラえもんのポケットみたいなもの
彼の捏造をもとに多くのもっともらしい論文が書かれた。
更に、教科書、歴史教養書まで

本当に単独犯なのか?
主犯・・・あるいは教唆犯は別にいたのではないかって疑惑をずっと抱えています。
犯罪捜査の鉄則は、利益を得た(得るであろう)ものを探すことらしい。


考古学あるいは学会が脚光を浴びる
画期的な発掘がなされた遺跡は観光資源になる
予算を引っ張るにも都合がいい


当時の事情を思い返すにSTAPと石器が二重写しにみえて仕方が無い。

2014年6月19日木曜日

二匹目の・・・・セーラー服を脱がないで






蝸牛庵蔵書において「女子高生制服図鑑」は、重要な一冊である(笑)
パラパラ眺めるに・・・・やはリ最高傑作は○屋女子の夏制服だ! 
しかし、つまるところは、セーラー服とは、水夫の制服に過ぎない。
すぐれて機能的なのです。
大きな襟は、立てれば、拡声器と集音器の用を果たすし、
胸もとのVカットは、海に投げ出された際に、破り脱ぎやすい・・ということらしい。
女学生は、それでなくともけたたましいので、拡声器はそもそも不要だし、
セーラー服を破るとか脱がす・・・などというのは・・・
手前どもにはあずかりしらない世界である(笑)
 
英国人は、海軍が好きなので、そのファッションが一般に普及した。
軍隊ファッションが、一般に普及するのは、
レジメンタル(ネクタイ)も同様である。
インターネット同様に、軍事技術の民生転用だと思えばいい。
 
 
日本に普及したのは、やはり「お雇い外人」の趣味である。
  
それ以前の女学生の制服は
 
・海老茶式部
・紫染衛門
 
と相場が決まっている。
もっとも、
 
・ネズミ式部
・垢染衛門
   ・・・と揶揄されたとも伝えられている。
 
 
 
しかし、大学の卒業式ともなれば、袴姿がキャンパスを席巻するのは、
はやり先祖帰り・・ってもんだろう。
袴にブーツというのも、当時の先端ファッション。
竜馬さんもお好みだったようだ。
 
 
和と洋の(今風に言えば)コラボレーション。
かつてはもの的に言えば「和洋折衷」、こころ的に言えば「和魂洋才」
キモノには、日本人の精神性が化体され、
利便性は、フットワークのよさで靴となる(最近はあまり流行りませんがね)
この気分の延長線で言えば、
箸で召し上がるフレンチはままあるが、
懐石をナイフとフォークで(?)は、寡聞にして知らない。
箸で食べるタラコスパゲッテイはありそうだが、もり蕎麦をフォークで(笑)
どうも、文化への冒涜といわれそう・・・
恵方巻チョコケーキ・・なんかはどう理解すればいいのでしょうか?
 
和なるものと洋なるものを「あわせ」るのはいいとしても、
なんでもいいというわけではない。
 
おむすびの具に洋なるもの・・・
しかし、
ハンバーガーの具に和なるもの・・・

どう考えても、後者は分が悪い。
これももって、古人は「主客混同」と称した。


 




2014年6月18日水曜日

外道の喰い物な「朝ごはん」





倭人なんだから、忙しい朝とはいえ、ちゃんとお米を食べて・・・


長いひとり暮らしとは言え「朝抜き」はやったことがない。
自前のキッチンのある暮らしだと、ちゃんとご飯を炊く。
おコメは、八十八回の手間をお百姓さんがかけたもの、
一粒一粒が辛苦の塊であり、粗末にしては目が潰れる・・・って
骨身に染みるまで叩きこまれた武装農民の末裔ですから、
なんちゃって朝はおコメ系。
そうはいっても、色々と思うところがあり、名物秘伝の「茶粥」に限る。
レシピは、単純とはいえ門外不出なもんで披露する訳にはいかない。


しかしながら、見方を変えれば「貧困の象徴」である。
ダイエットの良いから・・・なんて不適切表現もいいところである。
一日に喰らうコメの量は二合半と言われるが、
茶粥にすれば三倍から四倍になる。
貧しいご家庭ほど、お碗に顔が写り、箸が立たなくなる。
なもんで・・・芋を入れる、ナニを入れる・・・

我が家は、お出入りの釣師さんが朝釣り上げた鮎数尾を
そのまま鍋にぶち込み、香りだけで、食べてました(笑)





さて、多少気分を変えて、今人気らしい何とかっていうシリアル
特段の理由があるわけでもないが、根がミーハーなもんで・・・


800グラムで特価800円はお安い(一食が50グラム程度らしい)
理由は知らないが圧倒的な人気らしい
食わず嫌いは主義主張に反する
食物繊維と鉄分が多いらしい
寄る年波でまっとうに調理するのが億劫になった


 
とりあえず、結構なレシピ本も出てますし・・・
よくアメリカ映画なんかでこまっしゃくれたガキが、
シリアルに牛乳なんかかけてくってますが、食事って感じがしない。
餌食ってるって気分でしかないが・・・
ちょっと大量に買いすぎたもんで二週間は我慢してかあ(涙)
買うんじゃなかったなあ・・・

 

陋屋に送り届けても、にゃんこチャンは食わないだろう。
ちゃんとしたかつお節(仕上げ節)をまぶしたキャットフーズしか聞し召さないのですよ。











2014年6月17日火曜日

正しい「歴史認識」



歴史とはつまるところ「闘争」であり、
経済政策に対するイデオロギー的対立である。
その対立が、学理上の純粋理論闘争にとどまっているだけならばいいのだが
既得権とか利権とかがからみ、様相をおかしくする。
資本主義対共産主義みたいな不毛な争いとも二重写しになる。
  
 
華美壮麗な衣装をまとい贅沢にうつつを抜かし、
民草を顧みない貴族に対する農民反乱(当時は兵農分離ではないので、武士=百姓)で
出来上がったのが鎌倉政府。
百姓の利益(つまり土地の権利)を守るために政治を行っているうちは武士団=支援団体です。
しかし、経済の発展は、新興農民(商業兼営の「悪党」と言われる)を生み出し、
その対立を利用し、抵抗勢力から阻害された連中(賎民のたぐい)が担いだのが後醍醐天皇。
言い得て妙ですが「異形の王権」である。
建武の中興とも新政とも言われますが、
所詮は王族・貴族の利益しか守らなかったため、あえなく瓦解。
従来通りに武士団の利益擁護をマニュフェストにした足利政府が出来上がった。
しかし、その後の中国との「国交回復=朝貢貿易」は、貨幣経済のうねりを
もたらし、更なる商業の発展の機運を高めたのである。
 
 
足利政府以降の政治(経済)問題の論点整理を簡単に言えば「農業基盤か商業基盤」か
ということにつきる。
時代の発展過程において、商業(=流通)を無視しては経済は語れないのですが、
儒教以来の伝統で「商人賎民論」が根強く残っており、
孔子様が、あきんどを卑しんだ(らしいので)、結果「士農工商」と
いう身分秩序が与件のものとされた。
 
 
全ての「商品が貨幣に恋をする時代」においては、
商業基盤でないと経済政策運営ができないはずなのですが、
どうも、脳髄にこびりついた儒教思想が邪魔をする。
お江戸の三大革命とは、すべからく「反」革命であり、商業弾圧・農業復興
を志向するものでしたが・・・それでもキャラバンは進むわけであり、
ことごとく頓挫し、政権の寿命を短くしただけであった。
西洋史の流れに従えば、農業基盤政権は、封建武将のバランスの上に
成り立っており、その後は商業の発展に目をつけ、重商主義政策(商業重視)から
絶対的権力政権(絶対主義)に移行するはずなのです。
さすれば、明治維新政府ではなく、徳川絶対政権が出来ていた可能性は
ないではない(笑)
 
現代政治風に言えば農村票を基盤とする政権与党みたいなものであり、
衰退・敗退は歴史の必然というものです。
お江戸の「反革命」の結果、有意な人材が社会的生命を失い、
今に至る国際的な不利な立場(所謂領土問題)の原点ともなっている。
葵の御紋を振りかざす黄門様も、この春秋の論法からすれば反革命派の手先である。
新規事業を民間活力導入(あきんどとの官民癒着ですかねえ?)で遂行しようとする
代官は、あえなくとっちめられて・・・
 
備前屋、その方、家禄没収のうえ終生遠島
代官某、その方はおっての沙汰があろう  ・・・・ということで一件落着
 


 
最近の学校では日本史は選択科目って本当ですか(驚)
歴史を学ぶことなくしてどうして将来があるのでしょうかねえ?
年号やらマニアックな事象の丸暗記教育とかなにやらが、
歴史嫌いを産んでしまったのです。
最近は「歴女」なる方々がおいでになるようですが、
それが話題になるようでは悲しいし、
どうも彼女たちの「歴史への興味」は心騒ぐアイドルを過去に求めている程度としか思えない。
 
  
さて、身の回りに必要な究極の三点セットなるものがある・・・・
 
 
銅(鏡)をもって鑑となせば衣冠を正すべく、
古(歴史)をもって鑑となせば興廃を知る
人(友人あるいは側近)をもって鑑となせば得失を知るべし。
 
 
朕(唐の大宗)かつてこの三鑑を持って己の過ちを防ぐ。
いま魏徴(側近)逝き、一鑑を失う


 
 



2014年6月16日月曜日

こうして生きているのも、ノア様のおかげ

ノアの洪水伝説とはこういう解釈なのか。
旧約聖書なんて、ここしばらく読んだこともなく、記憶も薄らいでいる。
アダムの子供って三人だったっけ?
アベルはカインに殴り殺され、人類は兄弟殺しの末裔と思っていたが、
名前も定かでない善良な三男の子孫もいたらしい。
悪な部分はカインの系統で、三男の方は善なる部分。
当然、ノアは三男の家系だそうです。

悪が満ち満ちた地球の除染のための使命を、神はノア一族に託すのですが、
それは、人類の絶滅。
理不尽なのですが・・・「神がそれを望んでおられる。」
この美しい地球は、人類がいる限り担保されないって、一旦の真理。
神とは、エコ原理主義者でもあるのです。
そして、その神の代理人気取りの運動家もあまた・・・

ノアが、使命をはたせば、食物連鎖の頂点に位置するのが何かは
存じませんが、使命に違背したもので、人類は生きながらえている。
思えば、七万年位前に、スマトラのなんちゃら火山の大噴火で、平均気温が五度ばかり低下。厳しい環境が
ヒトザルの数を一万人程度の絶滅危惧種状態に追い込んだ。生存のための葛藤や闘争はそれなりにあったのでしょうが、環境破壊なる概念もなく、自然との共生の時代。

社会矛盾は、人口に比例する。この地球サイズに七十億人は過剰だ。みんなが健康で文化的な人生をおくるためには、どれだけのカロリーとエネルギーが必要なのか?
大胆に言えば、完全リサイクルが可能な倭国の人口は、江戸期の四千万人程度?衣食足りて礼節を知る社会とはそういうものだ。


ヒトザルの無垢の心に歪みが生じたのかどうかは知りませんが、
最近は聖書もの映画は流行りません。


十誡
十戒
天地創造


要するに、SFX向きのスペクタクルです。
創世記自体見せ場は数多ですが、大洪水だけで二時間強もたすのは相当にしんどい。
ヒネリを入れてのミステリー仕立ても如何なものか。
興収のトップを驀進しているそうですが、わざわざ足を運ぶまでのことはない。反エコ映画風解釈も、気をてらいすぎ(笑)


近日公開で、とるものもとりあえず・・・は、この映画だけ(笑)


http://girls-und-panzer.jp

2014年6月15日日曜日

ロールスロイスの後部座席で笑いながら・・・・



かの悪女パトリチア・レジアーニは、嘯きます。


笑いながら自転車に乗っているより、泣いていてもロールスロイスの後部座席がいい!


彼女は、グッチ創業者の孫の元妻
根は、とんでもなく貧しく、言ってみれば「玉の輿」
美人であったがゆえに見初められたんでしょう。

グッチ一族の盛衰は、それ自体物語的です。
よくありげな成功譚ですが、
創業者は、一流ホテルの荷物運びをしながら、富裕層とはこんな鞄を持つんだって研究を重ね、
フィレンツエで開業。
アメリカ進出が成功し、一流ブランドとなる。
あとは、二人の息子が均等にあとを継いだのですが・・・
まあ、よくあるお家騒動
栄光のグッチ一族は、没落し、ブランドだけは第三者の手で残った。


さて、最大のスキャンダルは、二人の息子とその子供を巻き込んでの
グッチの経営権の争奪ですが・・・こじれてこじれて
とどのつまりは夫と別居したパトリシアが、殺人の共犯で懲役30年の極悪犯罪者となってしまった。
まあ、雌鳥が時を告げるとろくなことがないのは、古今東西を問わないようです。
 

彼女って、貧しかったがゆえでしょうか、お金への執着心が強すぎた。
別居の際に、結構な生活費(毎月一千万円らしい)もらっていたんですが・・・

 
これぽっちじゃマニュキュア代の足しにもならない!

 
って言ったかどうか知りませんが、欲望には際限がないんですねえ・・・


愛があれば、お金なんて・・・って「ある愛の詩」の有名なせりふ
お金持ちのお嬢さんに、貧しい恋人が言います


富裕層ってみなさんそういうんですねえ・・・



なんか教訓的なお話でして「ロールスロイスの後部座席で笑い続けてきた」
蝸牛庵には理解不能です。
お金があるほど、その欲望は膨張し・・・って場合もあれば、
貧しかったから、執着心が異常に強いってことも考えられます。

ある程度財があれば、あくせくしない鷹揚な態度が富裕層らしいとも思いますし、
あの貧しさに比べれば、お財布が空っぽでも、心は豊穣って人もそれらしいし・・・



ちなみにパトリツィアは、いまミラノで悠々自適(?)のムショ暮らし。
昨年裁判所は仮釈放提案を行ったが、彼女は拒否。
仮釈放の条件は「仕事をすること」だったが、
レッジアーノ曰く・・・

人生で働いたことなんて一度もないし、
これからもするつもりはない

と判事に答えたという。
刑期満了のころは、彼女は八十歳くらいだと思います。


2014年6月14日土曜日

ローマから倭国が見える・・・・




自分自身を要素として含まない集合全体の存在から矛盾が導かれる・・・と言うのが
有名なラッセルのパラドックス。
そのバートランド・ラッセル伯爵は、かように喝破した。


古代ローマ人たちは・・・・

 
いかなる芸術的形式も創案せず、
独創的な哲学体系も築かず、
また科学的発見をすることもなく、
ただ立派な道路を作り、
体系的な法律を編み、
能率のよい軍隊を育てた・・・




悠久の大帝国を造築・運営する「統治の秘訣」はここにある(笑)
しかし、かの碩学のことばの残片だけでことの本質がみえてくるわけではない。
むしろ、この言葉は「最古の民主主義があえなく衆愚主義に堕落」した
古代ギリシアとの対比で噛みしめるべきことばである。

 
貴族というエリート階級の存在を忌避し、徹底した平等社会を作り上げたギリシアですが
その全盛期はペリクレスという稀代の名政治家の存在なくしてありえなかったとされる。
彼は、大衆に迎合することは衆愚政治に堕落することを誰よりもよく知っていたと
思われます。
彼の統治の時代こそが、西洋文化の基層をとなったギリシア文明が一番花開いた時。

つまり「外観は民主制だが一人が支配する国家」がアテネ民主制の本質ということです。
アテネ衰亡は、現代史あるいは同時代史としてローマの教訓にならなかったはずがない。
ローマ人はギリシアに学んだことは、文化・文明はもとより、政治哲学もそうであり、
最高のお手本がすぐ近くになったのが幸いした。
歴史を含め、学習できないという思考の柔軟性の欠如たる民族は論外であり、
ただただ青史に汚名を垂れるのみ。




お手本だと思えば柔軟に許容できることは、原理主義とは立ち位置を異にする。
敗者をも同化するというローマ人ならば、お手本ともなれば、言うに及ばず。
この寛容の精神がどうして育まれたのかは知らないが、最大の美徳だったかもしれない。
理由になるかどうかは定かではないが、ローマは「多神教」の国である・・・
正確には「であった」。



ローマが滅びた理由は多岐多様に語られる。
無論、原因が一つという単純なものでもない。
言えることは「長所が短所になる」ということであり、美徳が悪徳に転化するか
美徳が忘れ去られたことが一番重大な危機である。





















2014年6月13日金曜日

洗濯船・トキワ荘・グリニッジビレッジ





文化はある種の集合知によって支えられ、成り立つらしい。
辺境で突然変異的に出没する場合もあるが、
基本は、芸術家と称する社会生活落伍者や性格破綻者の集まりの中で
曰く言いがたい化学変化により「なにか」が生まれる。



洗濯船(Le Bateau-Lavoir)とはパリのモンマルトルにあった安アパート
ピカソが恋人と共にここに住み、モディリアーニ、アポリネール、ジャン・コクトーも出入りした
芸術拠点。

トキワ荘は言わずと知れたクールジャパンの震源地(豊島区)
残念ながら「洗濯船」と違って、いまや跡形もなく、石碑に面影を留めるだけらしい。


60年台のフォークソングの時代は、あのグリニッジビレッジ。
ルーインデイビスも、界隈の友人のアパートを転々と泊まり歩き、
チャンスがあれば、ギター一本でライブに参加し、明日が見えない日々を送る。
たった一枚のうれないソロアルバム(当時ですからLP版)



Inside Llewyn Davis



天才コーエン兄弟のカンヌ映画祭グランプリ作品をこれほどまで粗末に上映するかと
悲憤慷慨するのは蝸牛庵ひとりではない。
しかし、それなりに高踏派ファンのいるお江戸でもまばらな観客。
悲しくなりますが、まだスクリーンが提供されただけでもマシか。



ガキと動物が登場する映画は見ないことにしているのですが、
なぜか、にゃん子ちゃんとは相性が良い。

妻に先立たれ、猫(トント)と暮すハリー教授は、NYのアパートを追い出され、
シカゴへの猫連れふたり旅。
ルーインデイビスも、三毛猫を抱えてグリニッジビレッジを彷徨う。
寒々しい愛惜にみちた風景には、ふてぶてしい素知らぬ風なにゃんこが似合う。
これが、ワンコだと、変な感情移入が異化同化作用を引き起こしあざとくなる。


60年台のグリニッジビレッジが、どんな風だったかは、
マザースキー監督の「グリニッジビレッジの青春」でしのぶしかないが、
モノトーンに近いこの映画の色調でも、当時の匂いが分かります。
そういえば「ハリーとトント」の脚本はマザースキーの手になる。


PPM風に500マイルをハモるシーンがあるし、
ブラザーフォーですかねえ・・・オトコ四人組も登場
どうしようもないブスなオバさんは・・・ジョーン・バエズ(・・まさか)
最後にちょこっと、ボブ・ディランを思わせるシンガーが登場するの









2014年6月12日木曜日

「オスワリ」って、ワンコの礼法

 
 
  
腰掛ける作法って・・・あるんでしょうか?

 
ビジネスマナーなんかでは、
面接の際には、このように美しく腰掛けましょうってありますが
礼法とも文化とも思えない。
 
浅く腰掛け、
背筋を伸ばし、
バックはフロアのうえで、机の上は厳禁・・・・
足を組むには、まあマナーとしてよろしくない
 
だから、男性用ソックスは短めで、はしたなく毛脛なんかみせるようにつくってある。

  
かつて、神戸の某組が九州進出の際に起用した夜桜銀二さんは、
膝辺りにお名前を彫りこんでいたらしい。
名刺付きのタトウって・・・・ええもんですねえ(笑)
   
 
  
一方で「座法」の作法の豊潤なことよ!!
 
  
まずは「正座」
  
保守本流の座り方である。
が、足腰に負担がかかるし、罪科に伏すイメージもあり、まあ、敬して遠ざけたいもんだ
ちょっとわかってないのが「親指を重ねるかどうか・・・」
しびれが切れにくくするには、重ねるほうが効果的・・・・かしら?
 
なお、つま先を立てた正座の仕方を「跪坐=キザ」というそうです。
一体どんなときの作法ですかねえ?
床の間のお道具なんか拝見するときに(長時間すわる事を予定しない場合)使う程度ですなあ。
 
また、正座の変形で「おんなすわり」とか「アヒルすわり」があります。
後者は、ちょっと下品だ。
前者は人によりけりですが、なまめかしくていいですねえ(笑)
 
 
片膝立て
 
これって、お能のさいの控えの姿勢です。
チョゴリなんか着た時は、これが礼法みたいですねえ
もっとも、立膝の反対の足の親指をたてるかたてないか・・・・ちょっと議論があるみたい。
ちょっと苦しいのですが、後々の所作を考えれば、親指を立てるのが保守本流みたいです。
 
 
胡坐(あぐら)
 
正座の乱れ・・・でもありますが、結跏趺坐ともなれば、仏教では最高のすわり方である。
もっとも、どっちの足をどっちの腿の上に乗せるか・・・・で実はまったく違うらしい。
凡人の分際だと、脛の交差は「左が上」が正しい!
逆は、悟りを開いた者の座法であって・・・・まあ、これで人間の見識がわかるってもんだ
 
しかし・・・・
半跏思惟という略法がある。
多くの半跏思惟像では、左腿のうえに右足があります。
半跏思惟像とは、菩薩であり、
修行の身だから、当然に凡人とおなじく結跏趺坐状態で「左上」
 
 
もっとも、時代も下れば、礼法が乱れる・・・・
 

体育すわり
  
懐かしいですねえ・・・・
中学や高校までのころの体育チームの集合写真の定番的すわり方だった。
前列は「体育すわり」
後列は直立で、うでを後ろで組む。
最近のサッカーなんかだと、
立て膝でお互いが腕組をして、なんか戦闘性をアッピールしますねえ
昔は、あんなギラギラした態度は、
武士の風上にも・・・・っていわれたかどうかは記憶にない。


う○こすわり

別名ヤンキーわすり。
下品さは推して知るべし。

2014年6月11日水曜日

そして父になる・・・・のは誰か?




アントワネットは、当時の習慣として「公開出産」を行ったと
高名なステファン・ツヴァイクの評伝に記述されている。
そんじょそこらの犬猫同然の身分ならいざしらず、ルイ17世ともなれば・・・
しかし「母子関係」はそれで明らかになるとしても、「父子関係」はどう証明するのか?


人類にとっての最大の難問の一つであり、明治の賢人たちは知恵を絞り・・・


妻が婚姻中に懐胎した子は夫の子と「推定」する。
婚姻の成立の日から200日を経過した後
又は婚姻の解消若しくは取消しの日から300日以内に生まれた子は、
婚姻中に懐胎したものと「推定」する。


・・・と法律の定めをもうけた(772条)
しかし、あくまでも「推定」であって「見做し」ではない。
どちらもある事実や法律関係が不明瞭なときに、
本来そうでない状態を法律上本当の事実や法律関係として取り扱う「擬制」ですが、
その擬制力に大きな違いがある。

推定される以上、反論が許されるわけであり、
夫は「子が嫡出であることを否認する」ことができる。
しかし、嫡出否認の訴えは、夫が子の出生を知った時から「1年以内」に
提起しなければならない・・・とされる。

さらに言えば「嫡出否認訴訟」は訴えの期間に制限がありますが、
嫡出推定でない場合は「親子関係不存在確認訴訟」がありますが、これには制限がない。
いささか変な話なんですが、前者は家族関係の安定というより「相続手続の円滑化」が
主眼であったように思えます。






さて、訴訟フリークにはたまらない(笑)
最高裁で弁論が開始されました。

 
http://mainichi.jp/select/news/20140610k0000m040054000c.html


DNA鑑定で親子関係が否定されました。
鑑定精度は知りませんが、まず間違いがないのでしょう。
下級審では、鑑定結果を根拠に親子関係を否定しましたが・・・

面白いことに、不倫妻は、親子関係否定を主張するのですが、寝取られ夫は
それでも親子関係を主張します。
訴状を読まずに面白おかしくネタにするのは不謹慎の極みなのですが、
なんか複雑な事情がありげです・・・
将来、確実に金のタナゴを産んでくれそうな天才児なのかな?


普通に考えれば「嫡出推定否認訴訟」は期間制限がありますから、提訴は無理です。
それに「嫡出非推定」でないと親子関係不存在の訴えはできないはずです。
しかし、実体法も手続法も、DNA鑑定なんか想定しない時代の産物であり、
解釈と運用の柔軟性は当然必要なんですが・・・一体どういう婚姻関係だったんですかねえ

 

どうも最高裁は従前の判断を変更するのではないか・・・とささやかれます。
ちょっと前に「嫡出子と非嫡出子の相続割合差を違憲」とする仰天判決を出してますから
どうも、この手の話題には、原理主義的になるように思えます。


背景を忖度しないと「親権をめぐるドロドロ劇」に対して適切な判断ができませんので
どっちの主張が正しいか・・・は論評しません。

婚姻状態だけが親子関係を推定しうる時代でもなく、
六十年前の分娩台帳が残っている保証もなく
DNA鑑定で親子の証明ができても、鬼畜はどこにでもおり
普通に言えば「幸せな家族」を担保するエレメントはなにか?って
考える素材に格好かもしれません。


そうそう、だからといってなんでも訴訟ってわけにも行きませんからね。
権利の濫用って、このような場合にも適用可能なのです。
たしかそういう最高裁判決がありました(脱帽したくなる名判決)





2014年6月10日火曜日

ドラメデイ




世界は劇場だ。
すべての男女は演技者である。
人々は出番と退場のときをもっている。


もうちょい僭越ながら演劇の帝王の台詞に追加すれば・・・・

そして、人々の演技の多くは悲劇だが、
第三者という観客にとっては喜劇に過ぎない。
 



最近「ドラメデイ」というジャンルが確立されたらしいが、
文芸の長い歴史からすれば、今更という気がしないでもない。
概念として定着したのかどうかもよく知りませんし、
ウィキペディアにもまだ登場しません。

 

グランドブタペストホテル


 
なんとも奇妙な、でも贅沢な映画です。
これほどの主演級役者を揃える技量たるや相当なものを思わざるを得ない。
歴史に残るような傑作でもないが、時分のエンタメとしては本当にラグジャリーで御洒落です。

 

http://youtube.com/watch?v=xlgZQpYGnow

 

入れ子のような重層構造なつくりは巧妙だし、時代に応じて微妙に画面サイズも変わります。
舞台装置は、ドラマ定番のグランドホテル形式で、
時代はヒトザルにとって一番美しい時代であったろう1930年代。
映画の醍醐味は、神の宿る「細部」にある。ファッション、デザート・・・・
でも、どうして旅行鞄が「美豚」じゃないのだ?


ある種のミステリー映画ですが、それが最大のミステリー!
もう一度 見に行こう!
別にミステリーの謎を再度探索するんじゃなくて・・・


お気に入りの女優さん・・・
アントワネットの朗読係にして、MI4の凄腕の殺し屋で・・・
レア・セドウが、メイドの役でちょこっと出てたらしいが見落とした(苦笑)















2014年6月9日月曜日

反音楽論



オペラ(歌劇)とは、演劇と音楽によって構成される舞台芸術である。
一方で、ミュージカルは、音楽、歌、台詞およびダンスを結合させた演劇形というのが
物の本の定義である。
 

芸術形式の優劣を論じるのは、本意ではないが、
音楽においては、未だにクラッシクが頂点で、あとは二流芸術らしい。
確かに、時分の花とも真(まこと)の花とも言う。
いっとき人気があっても、あっという間に賞味期限が来る作品は、
その程度でしかない。
長い時間と風雪に耐えてこそ、真の芸術・・・といえばそれらしい。

しかしである。CATSは、80年代初期以降から連続(あるいは断続的)に
上演がなされ、
 
ロンドン:9000回程度
NY  :8000
日本  :8000    ・・・の上演回数である。
 
日本での年間300回公演を20年余り継続している事実からすれば
それでも「時分の花」ですかねえ?
一方、一番人気のカルメンを、これほどの上演をすればどうなりますか?(笑)
まあ、お値段の関係もあるのですが、同一料金だとしても一ヶ月ももたないように思えます。
芸術のリピート耐久力なんてあるのでしょうか・・どうもよくわかりません。
ちなみに、お能は、一期一会ですので「連続公演がありえない」が決まりごと。

 
 
とはいうものの所謂「古典派」が大好きで、ドイツロマン派(とりわけ後期)を受け付けません。
それにグールドのエキセントリックな演奏が好きです。
キース・ジャレットの即興演奏も好きです。
古典派のモーツァルトさんと一緒で、その即興曲がスコアとなって残ってます。
カルメンを毎日 はいささか敬遠しますが、彼らのピアノ曲だと毎日流れていても大丈夫。
 
   
--
 
・・・ここまで書いたところでイメージが胡散霧消し、しばらく放置していたのですが、
最近石井宏先生の「反音楽史」を読んで、元気が出ました。
これは(山本七平賞受賞作らしい)痛快で刺激的で反語的なのです。
刷り込まれた天動説みたいなものから距離を置いて冷静に音楽を見つめることができます。

 
さて・・・(先生のご高説をベースに)

  
①音楽史は、作曲家史であっていいのですか?

譜面は、それ自体設計図に過ぎず、出来上がった構造物=演奏物こそに価値がある。
先生は、記譜のことを「音楽の骸骨」ってまで言い切ります!
グールドが弾くからこそゴルトベルクは名曲であり、手前どもだと漬物が腐る
悲しい酒もまちぶせも、名曲たる所以は、ひばりさんやひろみさんがカバーしたからです。
涙の連絡線は、都はるみさんの歌って誰も知っていますが、作曲家は誰?

 
②高踏音楽と低俗音楽って誰が分類したの?
 
バロック時代や前期古典派のころまでは、そんな区分はなかったと
言われています。流麗で楽しい旋律は、生活の一部でした。
デイベルテイメントって・・・まあ食欲増進薬や睡眠導入剤の代替物だったのです。
みんなが楽しめる音楽こそが本流であり、
難解な精神性のみを追求するのは大衆を困惑させ、遠ざかるだけ。
変にお薬にたよる現在よりもはるかに健康的ですが、
逆に音楽家の地位って、その程度でもあったそうです。
あの世界中から愛されるヴィヴィルデイだって、20世紀に「発見」されたんですよ。
たまたま、LP盤が開発されて、収録素材の多様化が求められた結果らしい。
モーツアルトさんも、生誕・没後が百年で三回きますから、そのたびに新しい発見が行われます。
彼って不幸なことに昔は「♪♪お母さんと一緒学派」と貶められていたのです。

  
③記譜通りに弾かないとだめなのか?

少なくとも、コンクールでは絶対に駄目です。しかし即興演奏ってありますし、
自己流のコロラテイーナ(装飾音)をいかに駆使するかで技量を問われることもあります。
技量はあっても、創造性にかける音楽家もいたらしく、
モーツァルトさんはそれようの楽譜を書いてあげたそうです。
特に声楽では、18世紀では3オクターブは当たり前の技量だったらしく、
その即興性もすごかったんでしょうねえ。
夜の女王のアリアだって「たった2オクターブ半で」歌いこなせます。
表現に関する記譜符号については、演奏家は作曲家の奴隷ではない・・と思うのですが
ここんところは、プロ演奏家と意見を異にするでしょう。
厳格且つ権威的な正統的音楽教育を長年受けてきた「プロ」の呪縛ですなあ。

 
④ドイツが音楽の保守本流なの?
 
音楽用語の多くはイタリア語ですので、
源流は、他の文芸同様に古代ローマ以来の芸術の伝統を基盤としています。
18世紀での一流(とされる)の音楽家は、イタリアン人であり、
ドイツ人であれば、いくら優秀であっても二流とされました。
だからそれなりに認知されようと思えばイタリア留学の看板が必要だったそうです。
モーツアルトさんの悲惨で不幸な人生の多くの理由は、その人種性と学歴にあったとされます。
ライバルといわれたサリエリってイタリア人だったのですね。
才能がはるかに凌駕しても、駄目なのは駄目なんです。
門閥とか学閥みたいですねえ。

 
⑤声楽と器楽はどっちがうえなの?

人類にとって最初の「楽器」は、自前の声。
そして、究極の楽器。
なんと、女性の高音を男性のような強くたくましくうたうために
カストラーデ(去勢歌手)まで作り上げてしまった。 
声楽に適した言語はイタリア語の右に出るものはない(らしい)
けだし、イタリアオペラこそがオペラの頂点であったのは、それも理由のひとつらしい
ロッシーニ・ベルデイ・プッチーニ とその系譜は音楽史そのものではないか。
しかし、いまや、どっちかといえば器楽 それも交響曲が上位を占めるのが社会通念化している。
どうも、声楽の技量が衰え、器楽の楽器の性能が向上したのも技術的要因ともいえます。
石井先生の説によれば、これはドイツ人音楽評論家の陰謀らしい。
ドイツ語は、思弁するとか論理を語るには適しているが、愛や恋には不向きである。
同じ「苦悩」であっても苦悩の性質が違い、異性に対する憧憬もその様相を異にする。
どうあがいても、イタリアオペラを凌駕出来ない以上、下等音楽のレッテルをむりやりに張ったということである。

 
⑥正しい「歴史認識」とはなにか

ヨーロッパの文芸がルネッサンス以降イタリアが本家&元祖で、
それがフランスに移植され・・・ゲルマンの地は最後まで蛮族の文化はつる辺境の地であった。
それが当然でしょう。
ドイツが発展するのは、19世紀以降の軍事的勃興以来であり
普仏戦争で頂点に立ち、第一次世界大戦の敗北で徒労に終わった。
その間の、観念性豊かに厳格・堅牢・権威主義なドイツ文化は、日本に多大な影響を与えた。
最近は患者さんのことを「クランケ」って言わないらしいのは慶賀の至り(笑)


   
ともあれ、50年間の権力主義的な時代は終わったのですが、
長年の刷り込みは簡単にはぬぐえない。
音楽史において、ベートーヴェンさんは分水嶺です。
だって、それまでの音楽家は、みなさん鬘に金粉と半ズボン。
彼以降ですねえ・・地毛振り乱して・・・ちょうど音楽界のサンキュロット派です、
フランス革命って音楽にもとんでもない影響を与えたようです。


 
音楽は楽しい。楽しいから音楽を聴く。
高い精神性も、それを楽しめるからである。
カルメンやマダムMのクライマックスで泣くことのない蝸牛庵も、
グリザベラが天上に上るCATSのエンデイングでは毎度泣くのです。
たかが大衆音楽ですが、感動を与えられない芸術はクラッシクであってもそのうち死滅します。
 
 
えっと、誤解を恐れずに言えば、音楽にどのように「楽しみ」を得るかはそれぞれです。
崇高な精神性に涙し、その権威性にひれ伏し、かの難解性に打ちひしがれる・・・楽しみ方も否定はしません。
でも、音楽にはやはり、南欧の陽光がお似合いだと思うのです。




2014年6月8日日曜日

銀子・・・・・はいります




世の中には、徳もあれば悪徳もある。
徳は善であり、悪徳は不善であり、根絶することが真善美に叶う・・・なんて
原理主義を心底信じている頑迷固陋派は少数だと思うが、
いかんせん、正論すぎて反対はしにくい。



硬直化した視野狭窄的なイズムには・・・


出来もしない「根絶」よりもむしろ「節度」であって、
効果的なコントロールをするほうが、ヒトザルの心理に叶う。



アベノミックスの「四番目の矢」らしいが、一時の享楽と慰安を提供する以外
何らの価値も提供しない時間浪費産業が切り札とは恐れ入る。
かような「賭博産業もどき」は経済の本流ではなく単なる徒花ですが、
それはそれで必要悪ってものです。


闇賭場はどこにでもあるし、後ろめたいと思えば合法国でカジノに興じる。
射幸心はヒトザルの本能の一部だし、根絶しようとすればマフィア化する。
国家統制で節度あるコントロールをするほうが気が利いている。
多少の銭勘定をすれば、国家財政にも貢献するに違いない。


数兆円規模のマーケットサイズらしいが・・・
基本的に胴元が儲かる。
その胴元から、名目はなんでもいいが、税金を巻き上げるのが国家。
カジノの運営ノウハウは、倭人にはない。
世界を席巻する賭場の運営はすべからくアメリカ資本である。
個人資産をハゲタカと役人が巻きあげるという構図が見えてくる。
反吐が出そうと思えば、足を運ばなければいいし、
自信があれば勝ち逃げもできます・・・が、賭け手が儲かることはまずない。



だからといって「GAIJIN専用」なんて猿知恵は笑止
シンガポールでも、客の半分は自国民
相当な入場料を課しているはずであるが、射幸心には負けるようだ。
ギャンブル依存症は「病気」だそうです。
それも非常に質の悪い病気らしい。
政策あれば対策ありで・・・まあ知恵を出せばいい。
2016年にはマイナンバー制度ができますから、
賭場でのすべてのアクテイビテイは把握可能です。
IT産業の出番だなあ(苦笑)


いいことだから、もっと早くやればいいのに・・・
認可事業にすると国家介入や利権が絡みますから許可制で十分です。
あとは許可条件の内容次第です。
どうせなら、紳士淑女の社交の場よろしく・・・ちゃんとしたドレスコードで(笑)




ところで解禁されるのは「カジノ」だけですか?
クールジャパンですから、古典的な「盆中・鉄火場」等こそ解禁しましょう。
当然、丁半とか花札・・・
壺振りは、大滝銀子さんのような小股の切れ上がったいいオンナ限定
客だって、ちゃんとした和服着用のこと
伝統産業復権にもなります。


薩摩上布に小千谷縮の兵児帯
大島紬に献上博多帯


当然、地模様は「鱗文様」・・・ウロコって博打のツキを呼ぶのです。










2014年6月7日土曜日

ピアニストと結婚したオトコ



東西南北に春秋夏冬を比定し、更に青白赤(朱)黒(玄)を比定する。
陰陽五行説から発展した四神相応思想・・・まあ風水の類ですが、
日常生活にも無意識のうちに浸透している。
あっと、動物さんも決まってまして、龍雀虎亀なんかです。

青春とか白虎なんて、いまや普通名詞のたぐいだし、
東南アジア並みの暑苦しい夏を「盛夏」なんていうよりも「朱夏」って
いうと奥ゆかしいし、さわやか。
真冬だって「玄冬」の頃って、言うと教養あるって思ってもらえます。
ちらし寿司だって、この四色揃いが保守本流ってもんです。


こんな役にも立たない雑多の知識って芸能界好みなのか・・・

・青い珊瑚礁
・赤いストピー
・白いパラソル   ・・・・直接的に「玄」をタイトルにした唄はないのですが

アルバムでは「North Wind とか Windy Shadow」があります。


しかし、ホンちゃんの作家さんともなれば

・赤頭巾ちゃん気をつけて
・さよなら怪傑黒頭巾
・白鳥の歌なんか聞こえない
・ぼくの大好きな青髭
     ・・・・と華麗に完結します(さすがに日比谷→東大の才子)


さて薫くんも御歳で70歳を超えました。
まったく公式の場に出てきませんので、消息は不明です。
同窓の塩野さんは、ローマ史から十字軍物語と精力果敢なのにねえ・・
デビュー当時から危惧されたように、芥川賞作品以上の作品を書く事もなく、
どうも、ゴルフと投資三昧との噂です(羨ましい限り・・)
最後に公表されたのは、再刊本のあとがきかなんかで10年前ですよ!


それよりも「なんとか紘子さんなんか大好き」と作品内で愛の告白をし、
それが縁でコンサートツアー中は紘子さんの愛猫を預かるという関係から
かの才色兼備なピアニストと結婚までしちゃいました。
いまだに仲睦まじいってことでして、某鉄鋼メーカーお抱えの美形バイオリニスト
とはエラい違いです。


ネコが好きで、小説の名を借りて「告白」すれば、ピアニストを射止められる・・・とか(笑)
そんな僥倖はありはしないが・・・






2014年6月6日金曜日

貧困な犯罪・退屈な犯罪



知能指数(IQ)なるものは、知能検査の結果の表示法のひとつである。
平均値は100であり、85-115の間に約70%の人が収まり、
70-130の間に約95%の人が収まるようになっているらしい。

人間の価値が「知能検査」のみで測定されるとは、傲慢であるが、一応の目安にはなる。
しかし、測定誤差もあるだろうし、あくまでも「目安」にすぎない。

 
この表記方法が正しいとすれば、

・普通の人々が70%程度であり、
・25%程度が、いささか常人以上に明晰あるいは愚鈍ということになり、
・約5%が、天才(秀才)あるいは白痴(痴愚)ということになる。

 
物事の分布が平均的にベルカーブ(山型)を描くと思うならば、それらしく思えてくる。

 
さて、犯罪と知能指数の関係ってな統計がありました。
新受刑者の知能指数別の分布でして、法務省の統計ですし、サンプル数もざっと三万件。
知らなかったのですが、刑務所での最初の儀式は知能検査だそうです。

 
IQが70未満が、22%
逆に110以上は、1%程度である・・・・

 
つまり・・・三段論法的に言えば

 
犯罪者は傾向的にIQが低い。
教育程度とIQには相応の因果関係があるとされる。
貧困であることと教育程度にも同様に関連性がある

従って、犯罪の根源には貧困がある  ・・・となるのだが・・・

 
さて・・・
コリン・ウイルソンの名著「殺人の哲学」に、ジンの時代という章があります。
言ってみれば「貧困な犯罪」を描いた部分です。
一方で「退屈による犯罪」ということも論じています。
社会を震撼させる犯罪とは、傾向的に後者が多い!
愉快犯も、そのたぐいだと言えそうです。
ストーカー犯罪も、どうも貧困とは無関係風である。

 
国家の寧安は、国家の最大の責務であるが、指導者はその施策について、
確固たる信念と実現する意思をお持ちなのだろうか・・・
というよりも、やっていただかないとねえ。
倭国も、段々に不安全な国になりつつあるのだ。

犯罪の抑止力とは、貧困の撲滅と教育レベルの向上に尽きる。
死刑制度を含む厳罰化だけでは効果なし(不十分)・・ということになる。

  
貧困家庭の就学の機会拡大のための奨学金制度なるものは本来返済不要とすべきであり、
況や利息(3%程度らしい)まで含めて取り立てる(返済)をさせるという制度設計は、
国家による犯罪助長政策としか思えなくなる。
単なる奨学金のばらまきがいいともおもえませんが、教育と学問の充実とは、

世界に通用する人材を育成し(人材は国力です)
犯罪を抑制し、社会の安定させ
広義の治安維持コストも縮減する


・・・・一石三鳥の国策のように思えてきませんか(笑)
これぞコメ「千」俵!!








2014年6月5日木曜日

囚人のジレンマ




ヒトザルは、合理的思考を行う一方で不合理的行動を平然と行う。
73年の秋、某都銀があるアンケートを実施した。

質問=資源不足に対するあなたの対応は?
回答=①無駄な消費の回避、②再利用、③自給自足

実際に、この直後から発生した事象は、上位の回答とは縁遠い「買い溜め」
流通段階の在庫は、合理的な消費行動を前提とする以上、
不合理な行動の連鎖は、ある種のパニックを呼ぶ。

獲得のパニックと心理学的には言われるが、むしろ「囚人のジレンマ」と
考えるべきである。
あのオセロですら、愛する貞淑なデズデモーナを疑心暗鬼の末、殺害に至る。
緑色の眼をした邪悪なものは、どこにでもいる。
洗剤やトイレ紙の買い漁りのため、髪振り乱し・・・・
決して他人事だと笑えるものではない。

智者は惑わず・・・と孔子のたまうも、個は智のカケラはあっても衆は愚である。


流言蜚語の発生量は「重要性と曖昧さの積」だとされる。
なんか、深刻そうな話題だと注目を集める。
真実らしくもあり虚妄らしくもって不分明さで増幅され、
それにある種の意図が加わると、燎原の火の如くとは枚挙にいとまなし。
そのうち、我も我もと同調すれば
そう、韓非子いうところの・・・「三人市に虎をなす」



情報不足がパニックを呼ぶが、情報過多であっても、囚人のジレンマから
抜け出せない。逆に錯綜する多岐多様な情報がジレンマを増幅する。
情報の権威ほど怪しく犯罪的なものはない。
最初からいかがわしさをウリにする2CHの方がまだ真贋を
見分けやすい。



三度炊く 飯さえ硬し軟らかし 思うままにはならぬ 世の中


ネットの世界では、北大路魯山人の作・あるいは言葉とされます(笑)
誰かの与太記事を文献批判もせずに孫引きを繰り返した結果でしょう。
あたかも魯山人作が定着したようです。
そもそも、魯山人の評伝を読めば、こんな殊勝なことを言う男じゃないことは
すぐにわかる。


西新宿の常圓寺というお寺があります。
一代の快作を「盗まれた」狂歌師に出会えます。



ネットに限らずですが情報はもとより、真贋の目利きは難しい。








2014年6月4日水曜日

ゴッドファーザー



弥三郎 → 弥次郎 → 弥太郎 → 久弥 → 小弥太


歴史に詳しいと、三菱岩崎家の系譜とすぐに分かるでしょう。
みなさん「弥」の一字を代々受け継いでいます。
平家は「盛」、源氏は「義」というのは有名だし、徳川は「家」かな。


ところで、宮家では「仁」です。
皇太子は、徳仁
その弟さんは、「文仁」、そのお子様は「悠仁」

儒教での最高クラスの徳目は「仁」だとされます。
他方、倭国では「和」ですね。
さすればどうして・・・という疑問はさておき・・
多分、お立場上「おもいやる」ということが一番大切だとお考えだと思います。
臣下の立場が考えることが「和」・・かな。


悠久の血脈相承の証として「一字拝領」というのは目に見えて分かりやすい。
変に奇をてらうとろくなことがない

後鳥羽(尊成):承久の変
後醍醐(尊治):南北朝
 
その他にあと6名ばかり「仁」ではないお名前のかたがおいでになるそうですが、
みなさんご不幸な陛下ばかりだった。
吉野の山奥に逼塞、異郷の地に島流し・・・と丸谷才一さんが言っておられます。



まあ、少年(少女)時代から始まる自分史において、名前の呪術性による
抗しがたい自分の進路(運命)ってなものがあるのかもしれません。


まあ、親は、万感の思いを込めて、良かれとおもって、命名を行うわけであり、
いかに親の権威が地に落ちようとも、この最後・最高の権威は変わらない。
常用漢字の範囲で命名ができ、その範囲であれば、どのような読み方も勝手
という:これは不合理・・だと思うのですがね・・・

例えば

・悪魔(さすが、戸籍吏は、その見識において拒絶しました)
・死人(しにひと・・・多分拒絶でしょう)


ちなみに我が家は

◯右衛門 ◯左衛門 ◯楠 正◯ ◯幸 ◻︎◻︎ ・・・と脈絡もなく繋がります。

まあ、草莽の一族ですから、この程度だということでしょう。
でも、自分の名前は結構気に入ってます(嫌ってもしょうがないし・・笑)
しかし、他人さまにご説明申し上げる際には、結構汗かきますよ。


東大光クラブの、山崎・・・・     (知らない人の方が多いなあ)
ウルトラセブンの、森次・・・     (当時は、この芸名じゃなかったなあ)
宝塚の上月・・に画家の藤田・・    (これで岩波には通じた!さすがです)
水戸黄門の西村・・に太政大臣の藤原・・(N経新聞はダメでした!でも相手が広告部です)

最近だと、
どっかの大学の学長さんかな?村田〇〇     (お江戸では認知度なしだろうなあ)


実は・・・汗かきながら楽しんでます(大笑)









2014年6月3日火曜日

首相曰く・・・「制度の見直し」を指示



なんとも錯覚しておりまして、103万円の配偶者の控除枠を倍くらいに拡大するのかと
思っておりましたら「廃止」だとか・・・?


そもそもこの制度は「多産推奨と妻の座強化」を目的に、

戦時中の税制改正や
60年台の「配偶者控除」の独立
パート労働の円滑化等より現行の形が出来上がったらしい。
時代の要請に応じて制度が変わるのは、至極当然のことであり、
税制の公平性や中立という大義は無視できないが、所詮は「制度」である。


労働力が不足しているらしい・・・らしいというのは、
朝っぱらから「一時の慰安と享楽の提供」以外に何の価値も生み出さないギャンブル産業に
屈強なオトコや暇そうなオンナが行列を作っているではないか
軽挙妄動して外国人労働者増加策を議論するようなこととも思えない
長期的には有りげな話だから、対策が必要だと言えばあえて否定はしない・・・
 
少子化らしい。
結婚はしないし、晩婚化だし、最近は犬猫のようにポロポロ子供も産まないから
至極当然であるが、労働力不足の虚妄と違い、これは由々しき事態です。
一時期の農村のフィリピン妻みたいな現象が全国土的に生まれるのか?

 
要するに、配偶者控除を廃止すれば「労働力と出産」が激増するのであれば
極めて結構なことですが・・・ホンマですかねえ?
日本の出産可能あるいは就労可能な女性方はそういう行動に出てくれればいいが・・
逆に103万の壁を二倍とか三倍くらいしたらどうなるのでしょうか


今以上に働けるんだが、控除枠を気にして・・・っていう女性が多ければ
女性労働力の供給は確実に増えます。

結婚して働くほうが税金が安くなるって考える向きが多くなると
早婚化・・・結果として「妊活」活性化ってありうるシナリオです。


当然、税収は減るはずです。どの程度かわかりません
しかし、効果の疑わしい外国人労働者増加策や少子化対策よりは
確実な効果が見込めると考えます。
余計な財政出動が不要ですから収支はニュートラル
逆に想定に反すれば、税収が減らないわけですから、その意味で
無害な制度変更・・・ということになります。


出産・育児を含め家事も「労働」であり、
労働の対価は無償であっていいわけではない。
多様なライフスタイルという手垢のついた空虚な用語で、
配偶者控除は時代に合わない・・というロジックには恐れ入る。
結婚しない・出産をしないという人生の選択を否定はしない。
今レベルな社会の維持発展が必要だと思えば、自ずと保守本流を堅持する立ち位置があるはずです。



 


しかしながら「今レベルな社会の維持発展」が必要ということを
無条件に前提とすることには、実のところ・・・懐疑的なのです。
日本の国土には江戸時代程度の人口は、自然サイクル上も最も望ましい・・と内心思ってます。





2014年6月2日月曜日

本能寺の変「異聞」

信長の末裔なるものが、スケーターであり、光秀の子孫が歴史好きのシステム技術者であり、家康の血脈は・・・・
有名人の子孫探しそれ自体に意味はないが、光秀の子孫が「本能寺の変」の真実を解明・・・と言われれば、多少は心が動く。

正史は勝者の立場に立つと信じる者からすれば、定説のいかがわしさは周知のことだし、フィクション化され易い素材ほど、バイアスのかかった刷り込みがなされる。
このテロルで本当らしいのは、被害者が信長であり、直接の加害者は光秀ということだけで、動機その他は諸説紛々。



怨恨説
野望説・・・どっちもどっちというところである。
裏付け証拠は、皆無だし、唯一、光秀の心象風景を垣間見せる愛宕山百吟に至っては

ときは今 あめがしたしる 皐月かな

これって、改竄がなされ、作成日も数日前後するそうな。
それに、本能寺の変は、六月二日の新月の頃。


定説では単独犯ということであるが、フィクション的には、黒幕が様々いたことになっているし、本当に共犯者の有無は・・・都合の悪い事実は消されるのが常。


結局のところ、この事件で、利益を得たものが「共犯者」という月並みな展開となる。歴史のイフは楽しい(笑)

信長の死亡年齢は、五十前。
秀吉は少し年下、家康はさらに下。逆に光秀は一回り上です。
武将あるいは政治家としての出来ばえは不明ですが、秀吉に比べ子宝に恵まれていました。実際上、その頃は、信長は、代表取締役社長じゃなく、会長職です。
実質、征夷大将軍であり、頂点を極め、野望は、織田一族の末長い繁栄と容易に想像出来ることである。


蜚鳥尽きて良弓蔵せられ、狡兎死して走狗煮らる。


ナンバー2は、排除される・・・・歴史が教えるところ。
無能は勿論、有能だって余計に危ない。
かつて、代々の老幹部を追放し、今風に言えば、年功序列制から実力本位制に
人事制度を刷新した信長です。
非情とも、冷酷とも、合理主義的とも・・・・
優しいだけじゃ、戦国時代は生き残れない。
上に立つものは大変ですが、下も大変。
利口でもバカでも駄目で、中途半端はもっと駄目(笑)


光秀の末裔の唱える新説は・・・当然ながら物証はない。あれば、とうの昔に
抹殺されたでしょう。
以後の展開からすれば、話がうますぎるきらいがありますから、有り気な「仮説」という気がします。
陰謀に加担することは非常なリスクだし、加担しないこともまた同様。
一連の陰謀の中で、一番得をした奴がやっぱり一番のワルってことには、
激しく同意します。

パクストクガワーナの中での、大大名の配置・石高こそに真実が含まれる。
特に外様と言われる大名の処遇が、口に出してはいけない真実を問わず語りに・・・・

河内源氏の末裔にして、足利幕府の支柱でもあり、戦前戦後政治にも舞台のおもて裏で活躍した家系・・・・
長く、国政に影響力を誇示するのが勝った証しならば、この一族こそ。





超一流といいがたい出版社の文庫本
著者は、明智憲三郎さん。
八切止夫や加藤廣の本能寺本よりは上出来ですが、真っ当な版元は袖にしたのか、あるいはなにかリスクを感じたか・・・・

2014年6月1日日曜日

拡がるか・縮むか・・・



かつて「倭」といわれた日本。
中華思想では、近隣諸国を東夷・西戎・南蛮・北狄という。
一応「人偏」がついているから、犬畜生以上の正当な評価である。
委は、その姿の低くしなやかな様・・らしいので、
倭人とは、しずしずと内股で歩くのが似つかわしい「内向性」民族だと
当時のチャイナは、見立てたということである。
もっとも「矮小」という言葉もあるので、良い漢字ではないという声も・・・
 
 

島国だから内向きだということではない。
たまたま、内向き思考であったことをとらえて
事後的に「島国的」だと言っているに過ぎない。
だって、島国なんとかって言葉の歴史は、そう古くないし、
内向きだと断じられたことにより「縮み文化」なるものは席巻したわけでもなかろう。
内向的な性格が縮み文化を生み出し、世界に比類なき特質すべき文化の形成がなされたと考えるほうがいい。
 
しかし、文化は差異であって優劣ではないので、
縮み文化が下等で拡がり文化が高尚ではない。
約20年前に「縮み志向の日本人」という秀逸の日本人論が上梓されたが、
あらためて 本箱の隅から取り出し、真面目に読んでみた。
 
対比対立する二つを並べて、片方の存在を全否定するのはいかがと思うが、
日本の文化・風習を表現するに「微小化」を切り口とすることは
相応の納得感がある。

 
すべてを・・・
  
手繰り寄せ
そぎ落とし
折り畳み
握り込み
押し込んでしまう・・・のが縮み文化である。

例えば・・
団扇を折りたたみ式に扇としたのは倭人の発明らしい。
六曲一双(ろっきょくいっそう)の屏風なんかも、折りたためばコンパクトになるから、これもそうだろう
大自然を切り取って邸内にこぢんまりと再構築される生花・坪庭・盆栽、さらには茶室にいたる。
現代にいたれば、
ウオークマン・携帯電話・・・ 

   
しかしながらである。
微小化の反面には、「壺中の天」という思想もあります。
つまり
壺の中と言う極小世界のなかにこそ広辺無窮のコスモスがある・・とされるが、
それには一顧だにされない。
借景とは「外の山を自分の庭に引き入れる入れ子型の「縮み」とされるが、それはいかがなものか・・
微小化された自然を借景により極大化している
「菊を採る東離の下、悠然として南山を見る」・・に共感する以上
そう思うのが普通ではないのか・・・
茶室は、その完成度合いに従い、段々に狭くなり、最後には一畳半まで。
でも、それを見たイエズス会の宣教師は「市中の山居」と喝破したではないか。
狭い茶室が、山麓全体に広がるイメージを冷静に見とったのです。

 

些末な事で名著を非難するのは本意ではない。
なにごとも「ちいさきものはうつくしい」という美意識(枕草子)が
我々の精神性のバックボーンだという再発見を、素直に受け入れることである。

で、日本的美意識が薄れていくなかで、日本人が「拡がり志向」となったわけでもない。
縮み志向であるが故に、外向性を強く打ち出したときは、
外交的摩擦を生んだだけでろくなことがなかった。
得手な内向きを忘れ、下手な外向き志向だけに立ち位置を変えた
日本人の明日はどうなるのでしょうねえ?
少なくとも、英語ができないから国際化ができない・・と言っているうちは夜明けは遠い。