アタシのような絶対神を信じない者には理解し難いが、、、150年前のボローニャでの幼児「誘拐」事件。さほど珍しい事でもなかろうに、教権、信仰、政治が絡めば、ハマチが鰤にもなる。
裕福なユダヤ人商人の末っ子の病状を不安に思ったキリスト教徒の女中は勝手に洗礼の秘蹟を行ってしまう、、、当時の教会法によれば、
キリスト教徒ならば誰でも洗礼の儀式を行える
洗礼は取り消せない
ユダヤ人はキリスト教徒を生育できない、、、、らしい
世俗的には誘拐事件であっても、教権からすれば正当な保護。かくて、ユダヤ人社会と法皇庁の対立は激しさをまし、加えてイタリア統一運動も絡み合う大騒動となる。
結末は?と言えば、イタリア史の通りだが、教権は完全に世俗権力に押さえ込まれ、この「主犯格ともいうべき」ピウス9世は就任時は改革派として民衆から熱烈歓迎されたが、晩年は黄昏れる教権の失地回復を保守的に推進したが故に更に失点を重ねたようだ。
しかし、げに恐ろしきは「洗脳」ともいうべき信仰心の植え付け。絶対への帰依と寛容性は相容れないようだ。宗教的にナイーブな倭人には、薬になるかもしれないが劇薬にもなりうることを、麻原彰晃や文鮮明が教えてくれたが、その呪縛からの解放は至難の業。
主人公のエドガルド君は、ユダヤ教徒に戻る事はなく、終生宣教師として辺境での布教に勤しんだ。
ラストシーンはまことに衝撃的
命尽きようとする母親のところにやって来たエドガルド
親子の情は信仰を凌駕するんだ、、、なんて生やさしい事を予想するのは優しい倭人だけ(^^)
洗礼の秘蹟を受けないまま死ぬ事は地獄に堕ちること。子の親に対する愛とは、ユダヤ教徒だろうともキリスト教の洗礼をほどこすこと、、、、
しかし、母親はキッパリと拒絶し、ユダヤ教のマントラを唱えながら天に召される
キリスト教もユダヤ教もイスラム教も、全てアブラハムの神への信仰なんだが、、、共通の神であるが故の近親憎悪はなんとも致し方ないのか、、、
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