2016年10月31日月曜日

「民」とは一体何者なのだ?


氏部の漢字である。

眼を針で突き刺すさまを描いたもので、眼を針で突いて視力を喪失させることで自由を奪い取った人。
すなわち「奴隷」を表す。
のちには目の見えない人のように物事のわからない多くの人々、支配下に置かれる人々の意味に使われる・・・というのがネット漢和辞典の解説
ちゃんとした紙漢和辞典からの引用のようですが、ネチズンの常として「出典明示」という当然のことをおろそかにする。
貝塚中漢和では、そこまで詳しくはないが、「錐のようにとがった事の借用から亡民の意」なんて書いてます(これもよい意味ではない)
どちらにせよ「民」とは(少なくとも民という漢字は)そういう存在なのです。
もう少し言えば、白川「字統」も同様のショッキングな表記をそれ以上に書いてますから、正しいのでしょうから、
諸橋大漢和まで調べなくともいいだろう。

いわゆる「市民」なる存在がある。
一般に「住民」といわれると土着的庶民系であるが、市民といえば意識高い系のソフィトケイティドな感じを気に入る向きは多い。
しかし、本来の語義的には上記のとおりあまりたいしたことではないというよりも差別的なのです。
それを思えば、レフト系イデオロギー臭さがあるが「人民」のほうがいい。
ヒトザル意識に目覚めた奴隷的境遇人って語感が、けだしプロレタリアそのものではないか
名訳というべきだ。
総中流意識化においては、ブルジョワジーを意味するシトワイヤン(市民)なる言葉でもよかったかもしれないが、
今となっては、いささか時代錯誤だし、そもそも的にもよい漢字ではない。


不思議なことですが「市民」といわれて差別的だと怒る御仁はまずいない。
知らないってことは恐ろしいし、間違ったことを教え込まれても信じてしまうこともある。

困ったことに、民に代わる「書き変え語」が見当たらない。
世の中は、二種類のヒトザルしかいなくって、実質的な意味での少数の支配者と、同じく実質的な多数の被支配者だといわれる。
その多数の被支配者が「主権者」だというから民主主義って奇妙な国家支配体制なのです。
普通、民の反対語は「官あるいは君」とされますから、構図的には明らかようにも見えますが、露骨に口に出してよいことではない。



巧妙な支配の構図とは・・・・藤原不比等以来の摂関政治を見ればわかる。
中臣族が「藤」原と改名したというのは、意味深である。
藤は、パラサイト植物の代表例である。
巨木に巻き付き、枯れ朽ち果てない程度に搾り取り、陰に隠れて表面の支配者を人形のように操る・・・・

倭国には「絶対的権力者」はいない・育たないって言われていますが、それは見方が皮相である。
高いところに立ちはだかり的にされそうな危険を冒しながら個人の絶対意思のみで君臨統治するのが
最良の統治術ではないってことを知っていたのです。


市民とか主権者とかおだてられて己の愚昧さに気づかないようでは、真のシトワイヤンにはなれないのですよ。
おだてているほうもなんか意図性があるのかもしれませんねえ(笑)
市民運動なんていうと理性的に聞こえますが、某地では「暴言・脅迫・監禁・暴行・・・・」を職業的に行う連中の集団活動がそうことことみたいのようです。
プロ市民といわれる「何でも反対屋」に煽られているだけかも知れませんが、
つまりところ蒙昧だから騙されているのに気がつかない。





0 件のコメント:

コメントを投稿