論語の「為政篇」に、孔子が自身の生涯を語ったとされることばがある。
十有五にして学を志し
三十にして立ち
四十にして惑わず
五十にして天命を知り
六十にして耳順う
七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず
多分であるが、かくあれかしとかかくありたいではなく、自分の人生はこうだったから満足しているって解釈するのが妥当だろうと思われます。
老境の身で人生を顧みて、こう思えるって「シアワセ」としか言いようがない。
孔子ですら「できた人間」になるまで成長するには70年もかかったわけですから、
その辺のガキのおバカ行状を非難にしてもしょうがないし、致し方ないってことだと諦観するのが正鵠を得ているし、若いやつに任せられないっていうことも一部的には正しい。
ある国・地域において、
高齢者が人口の7%以上を超えると高齢化社会
14%を超えると高齢社会
21%を超えると超高齢社会 と呼ばれる。
日本では、人口推計上2050年代までは世界第一位の超高齢化社会のはずで、2060年代になればトップの座を譲り渡すらしい
そもそも高齢者の定義って様々であり、一般的にはWHOの定義に従う。
65歳以上を前期高齢者
75歳以上を後期高齢者
85歳以上を「末期」高齢者と呼ぶはずだが、さすがに語感が悪いと思ったか倭国では使わない(苦笑)
人口の三割が所謂「高齢者」なんだから、うまく折り合いをつけていかないとよろしくない。
孔子に従えば、
高齢者になって初めて他人様の意見に耳を真摯に傾けることができ、好きにふるまっても社会常識を逸脱することがなくなる
わけだから、
隠居して家でゴロゴロされては困るってことである。
しかしながら・・・困ったことに
儒教的な長幼の序という高齢者厚遇の背景には短命からくる希少性があることは否めない。
馬齢を重ねるだけで社会保障費を食い潰すだけの存在には畏敬の念はおきようがない。
どうも、ご老人は以下のタイプに分かれると・・・一体に誰が言い出したか?
円熟型(過去を後悔することもなく未来に対しても希望をもつ楽観派)
依存型(現実を受け入れ、物質的・情緒的な支えを与えてくれる人に頼る無為安楽派)
防衛型(若い時の活動水準を維持しようとする老化拒否派)
憤慨型(老いに対する不満が他者への攻撃となってあらわれ、責任転嫁派)
自責型(人生を失敗だった・自分が至らなかったと考えてふさぎこむタイプ)
一見してわかることだが、円熟型がマジョリティならば苦労はしないが、中華四千年で孔子のような聖人(卓越した徳と才の持ち主)はまずいない。
キレル老人とは「憤慨型」であり、社会的には迷惑
自責型だと引きこもり鬱状態になるんですかねえ?
防衛型も席を譲ろうする若者に説教する程度ならまあ罪は軽いが・・・
ある意味で一番たちの悪いのが依存型。
社会保障費を筆頭に、ごく潰しのように国会財政を食いちらかす輩である。
先日は蝸牛庵のお誕生日・・・
従心の年になりましたが、今の生きようは上記のどのタイプかなあ
憤慨型や自責型ではないと思ってはいますが、依存型にはなりたくないとは思いますが防衛型かも(^^)
円熟型? ・・・在りたいとは思いますが、、、