勅撰集の巻頭歌あるいは巻軸歌は、それなりな権威であり、大抵は名歌と言われる、、、いやその位置をしめたから名歌になるとも言えます。
あまりに有名な古今集秋部の巻頭歌
秋来ぬと
目にはさやかに 見えねども
風の音にぞ
おどろかねぬる(藤原敏行)
上の句で秋を視覚で感じ取り、下の句は聴覚で思い入るって、理が勝ちすぎると言えばそれまでだが、技法としては今に至るまでしぶとく生き残ります(例えば、文部省唱歌でも屈指の名曲である「おぼろ月夜」がそうです)
しかし、時代が下ると、巻頭や巻軸は儀礼的に選ばれるようになり作品よりも作者。新古今集が際たるものですが、後鳥羽院が作者を名指ししたと、、、歌論書だかには書いてますが、勅撰集である以上、愚作はまずないはずだ。
某氏編纂の詩歌集の秋部の巻頭歌
この寝ぬる 朝けの風の乙女子が
袖ふる山に 秋やきぬらん
万葉集収録歌と思いきや、後鳥羽院の御製
ケレン味もなくおおらかなスメラミコト詠ですが、
上の句は単なるマクラ
袖ふるって、、、、万葉集でしか使われない慣用句ですが、すぐれて呪術的な振る舞いとされます。
不可知なものを呼び寄せる、、、後年は単なる儀礼的な挨拶になってしまったが、基層にある情念みたいなものはいまだに生きています。
フッタ・フラれた、、、たわいない痴話語だが、実はそういうこと
今年の秋の到来も、朕の意を汲んだ処女達の袖ふる振る舞いにあるのだ!
森羅万象の全てを支配する帝とはそんなもの
ちなみに、この詩歌集の二首めは、敏行の作品です。

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