2017年2月28日火曜日
名門重電企業の果てには・・・・
崩壊(安宅産業)
消滅(山一證券)
経営不在(カネボウ)
崩壊連鎖(長銀・日債銀)
座礁あるいは沈没(三光汽船)
破綻(林原)
腐翼(JAL)
名だたる名門企業の末路ドキュメンタリーは、
そのネーミングの巧みさ(必ずしも内実を正確に表さないが)で売れ行きが決まる。
いまにもどうにかなりそうな名門重電会社の場合はどういうタイトルがつくのかしら?っていまから興味津々。
蝸牛庵ならば「土崩瓦解」だと・・・
著名な経済記者や評論家はすでに前金をもらって資料を集めて準備中なのでしょうねえ
すでにあれやこれやと雑文が経済紙(誌)に散見されますので、買って読もうとも思うかどうか...
140年の歴史それ自体が、産業史そのものなのですが、巨像とはいえ、腐ったお魚同様に頭からってきっと書かれることでしょう。
ペリクレス亡き後のアテナイ民主政みたいなもので、
疫病の大流行という外乱があったとはいえ、有能なリーダーがいないと哀れなものです。
はびこったのは、衆愚政治家。
小心で自己保全能力だけがたかく、上に諂い下には威張りちらすってどこにでもいますが、
こういうのに力を持たすとろくなことにならない。
名門大企業ともなれば、自己顕示欲だけが強くって能力のない輩が上にたつことはまずないが、
自己顕示欲も能力も高いって威張ってんのがいる訳でして、こういうのが偉くなる。
いっそのこと、自己顕示欲も能力もないのが「祭りの神輿」になるのがまし。
船場の老舗は、実直な番頭を婿取りし、不出来な息子には商売をさせずに、芸者遊び三昧をさせておく。
ハマチがブリにはならないが、安定的家業存続の秘訣って案外単純なんですよ。
この名門企業の場合は、運も悪かったが、ウンも実力のうちである。
山本権兵衛が、運のよさを買って東郷平八郎を指揮官にしたエピソードはあまりに有名であるが、
自己顕示欲のなさを買われた。
逆に推挙されなかった伊東祐亨は憤懣やるかたなく、山本のところに刺し違えんばかりに
乗り込んできたが、上記のようにいなされ退散したらしい。
逆であればどうだったかは分かりません。
そうそう、今後の展開次第ですが、このタイトルもあり得ます。
アンデッド
2017年2月27日月曜日
開港150年あるいは黒蜥蜴
それがどうした(笑)
平安時代から中国貿易の主要港だったんですよ。
江戸時代末期の西夷に対する港湾開放から起算するのは正しい歴史観とも思えない。
何かにつけて明治が、光輝あまねく倭国の始まりってどうしようもない錯覚
どうも十年毎にかようなイベントをやっており
つまらんイベントが数多あるのですが、倭国で最初の映画の上映が花隈で行われ、
それに因んで35ミリフィルム映画祭と言われれば、浄土からはるばる穢土まで足を運ぶこととあいなった。
確か、明治29年のことです。
エジソンの発明になるキネストコープ・・・・スクリーン上映じゃなくてピーピングスタイル
でも大盛況で、この時に因んで映画の日(十二月一日)が制定された。
今回は言うほどたいした作品が上映されるわけでもないが・・・・
黒蜥蜴
これは冥土の土産に見ておかないとなあ
原作は江戸川乱歩
戯曲化が三島由紀夫
監督は深作欣二
主演(黒蜥蜴)美輪明宏
蝸牛庵が映画に求める「耽美、頽廃、倒錯」の全てがある。
……………………
なんともなんとも(笑)
三島の艶麗無比な戯曲の台詞回しをそのまま台本にとり、大仰にギリシア悲劇的ではないが物語が進展する。
多分に興行失敗作だよねえ。
木村功の明智小五郎っていささか違うし・・・天地茂のイメージが強すぎるのかねえ。
でも、当時の丸山明宏の居住まいっ・・・・ゾックときますなあ。
今時のこの手系には表現不能な妖艶さ。
しかし、聖セバシュチャン殉教絵図のスタイルにどうしてしなかったのか
折角特出で三島が半裸で登場するんだから、一番お好みのマゾフィスティクな画像スタイルがいいのに・・・
ここんところは興ざめだ。
2017年2月26日日曜日
双調平家
かの平賀源内が昭和の代で戯作に手を染めれば・・・橋本治になる。
有り余る才能を無駄に食い散らかし、いまや彼も老齢者。
後世何が残るかといえば・・・多分「翻案創作古典小説」
いずれもなかなかの出来栄えだと思うのですが、
オリジナリティを問われる文芸のヒエラルヒーからすれば上位にはなれない。
双調平家物語(全15巻)
読みきるには、相当に知力と気力が必要です。
時間の余裕ができたので、十年ぶりに再読してみましたが、もうすぐ読了。
あの戦記文学の傑作「平家物語」の翻案には程遠く「権力なり栄華の本質」に迫ります。
平家一門それ自体の興亡には余り興味がなく、
楊一族の専横に始まり安史の乱とか摂関一門の陰謀なんかが延々と続く。
人物関係の複雑さにヘキヘキしつつも・・・・
権力や栄華は「褥の性戯の巧拙と美醜」で決まるって(苦笑)
古来馬上で天下を取るも、治むるにあたわず・・・とは中国古典の名言であり(陸賈がこれで劉邦をギャフンと言わせた)
間違いではないが必ずしも正しくはない。
政権の陰に潜み、千年のあいだ政治を壟断した藤原一門の「藤」とは寄生樹の代名詞
巧妙に「寄生し表面上の施政者をあやつるアート」こそがそれである。
藤原一門の本流は、その後「五摂家」となり、いまだに家名は存続しています。
隠花植物のような貴種とは簡単に滅びぬもの。
歴史と伝統の重み(厚み)って大層なものですなあ。
摂政関白の地位を公的に独占し、帝の奥様だって、皇族あるいは五摂家の子女に限るって不文律まで。
秀吉だってどうしても関白になりたくて(家柄的に征夷大将軍になれなかったもんで)近衛家の養子になりやっとこさ任官された。
なんだかんだ言っても「出来のいい」メスザルを持ちえないと、裏権力は堅持できないのが日本史の読み解き方である。
そういえば、名古屋にも「五摂家」なるものがあるらしい。
しかし、誰でも知っている三河のクルマ屋さんは、家格が低いのか五摂家のひとつとは言わない。
一部で話題のモデル小説(といわれる自動車会社の内幕話)なのが「トヨトミの野望」
内容の生々しさもさることながら、何故に「トヨトミ家」なのかってことが大事なのですよ。
2017年2月25日土曜日
夢の王国の最終方程式
ステージパフォーマンスと言えば・・・
芝居(演じる)
踊る
歌う
誰しもが、全部まとめればって思うだろうが、濫觴は世紀末あたりの維納のオペレッタ。
その後、新大陸にわたり、映画の勃興と共に隆盛を極めたのが60年代まで。
しかし、リアリズムからは程遠く、シネマは社会的であれかしって声に衰退の一途
再生には半世紀近くを要した。
思うに、この三つのパフォーマンスを融合凝縮した芸能は「能」ではないか
それが14世紀の頃だってことに世阿弥の天才性を改めて想起するのです。
単に大衆娯楽の真髄を極めた(寄せ集めた)だけって言い方もできますし、
所詮は絵空事ですから・・・・
かつてはミュージカルがオスカー作品賞の常連だったが、二十一世紀初めの「シカゴ」以来カスリもしない
これだって、作品賞に相応しいか疑念がある。
映画的にはノミネートされた「めぐり合う時間たち」が遥かに上だし、大衆人気的には「戦場のピアニスト」だ。
さて、今年は珍しいことにこれが大本命らしい。
まあ、ウキウキ楽しくなります。
あまり共感しにくい批判の嵐の中で、非白人男性映画のノミネートが
増えてますので、そっちが主要な賞にありつく可能性は十分にありますが・・・・
まあ、大衆娯楽ですから、不快な気持ちで映画館からでてきてもしょうがない。
七十年代の場末のオールナイト任侠映画祭
全員が、血ばしった眼で花田秀次郎や風間重吉に感情移入して朝焼けの空を見つめていたではないか。
さて、ラ・ラ・ランド
ハリウッドのバックステージ仕立てで業界人受けも狙えますし、
定番のドリカム映画。
でも、男女とも夢を叶えサクセク街道真っしぐらが本当に幸せなの?って
今ひとつの未来予想図なんかを示しながらの問いかけというヒネリがオスカー会員の胸掴みそう。
実によく出来ていますが、エマストーンの歌が余りに下手(笑)
ストリープは絶対音感の持ち主ですから、稀代のオンチだって苦もなくこなすが・・・
しかし、アフレコやれば、ベストアクトレスにノミネートはされない。
隠した場合、バレれば女優生命は終わり。
ポートマンのバレーシーン(ブラックスワン)はあまり問題にならなかったが、
クラッシックバレーは特殊技術だと言いたげか。
多分、作品賞はコレが本命なんでしょう(対抗馬に恵まれました)
2017年2月24日金曜日
希臘三国志演義
ギリシア人の物語も第二分冊となり、ますます佳境に入る。
女史が意図したのかどうかは知りませんが、これって「三国志演義」ですよねえ。
彼女って歴史家でなく、著述家ですから、この作品も三国志でなく三国志演義というほうが正確である。
だっから、タイトルもギリシア人の「歴史」ではなく「物語」なのですよ
アテナイとスパルタとペルシア帝国の三つ巴の戦争と平和の物語。
民主政治の発展だとかそれに裏打ちされた哲学や文芸の繚乱なんかよりもそっちのほうが面白いに決まっています。
平和といってもたまたま血が流れないだけで安逸のほほん・・・ではない。
それは平和とは言わず「平和ボケ」という。
古来より「治にて乱を忘れず」というでしょう。
歴史上のセオリーとして三つ巴の争いは、すべてが敗者になり、漁夫の利をせしめる者が登場する。
それがマケドニア。
もっともそのお話は第三分冊に描かれるようだ。
政治というアートの中で民主政治こそが最良なのかどうかはなんとも言い難いって気にさせるところが
かの女史が危険な著述家である所以である。
たまたま国情に一番適合した政体を選んだらそうなっただけでしょう・・・って、
身もふたもない(苦笑)
ペルシアがペルシアらしく、スパルタがスパルタらしく、アテナイがアテナイらしくあるために、
それぞれが、帝政、僭主政、民主政を選んだらそれなりに上手くいった・・・違いますねえ、上手く行くためにはって
知恵を絞った結果なんです。
いずれの政体においても優れた(あるいはそれなりの)指導者がいたことには変わりはない。
ヒトザルの歴史において未だに原始共産制がそうであったであろうような「リーダーのいない平和平等な社会」を
生み出してはいないのである。
優れたリーダーがいた時代は政体がいかなるものであれ、ヒトザルにとって最高に幸せな時代なのです。
五賢帝の時代も乾隆帝の時代も、リベラルにとっては不都合でしょうが民主政治の時代ではなかったのです。
逆に、有能な指導者のいない民主政ほど手に負えない厄介なものはない。
一般に「衆愚政」というが、要するに民主政とかコインの裏表に過ぎないし、
マーフィーの法則よろしく裏面が出ることのほうが多い。
優れた統治システムを考え出すのは、大衆ではなく名門エリートである!ってこれまた物議をかましますねえ。
こんなことはレーニンの革命論にだって登場する「不都合な真実」なんですよ。
民主政治の危機とは、主権者の堕落ではない。
そもそも大衆とはその本質においてしばしばパブリックセンシティブに流される「衆愚」なのです。
絶えず優れた指導者を生み出す、愚昧なリーダーを巧妙に排除できるようなシステムでさえあればなんでもいい・・・・とまでは
彼女は暴言を吐きませんが、内心はそういうことだと思いますよ。
2017年2月23日木曜日
「ベン・ハー」は何処に行った?
オリジナルは19世紀末あたりのベストセラー小説です。
風と共に去りぬと並ぶくらいの大衆的傑作。
ベンハーは、ユダヤ人の名門ですが、サブタイトルには「キリストの物語」とされますので、宗教的味付けが隠し味。
時代的に映画界が目をつけないはずがなく・・・
1907年版
1925年版(大ヒットだったらしいが未見)
1957年版(かの大傑作!戦車競争の凄さは後世様々にモチーフとされた)
2003年版(アニメ版らしいがよく知りません)
2016年版
最後は、制作費一億ドル(大した金額でもないが・・・)で、公開予定のはずが・・・
シネコンの予告映像にも関わらず、劇場公開見送りって、
なんかスキャンダルとかクライシスでもない限り起こりえない
稀有の出来事。
一体何があったのでしょうか?
よくわかりませんが、興行的に当たらないって判断したのだと思いますが・・・多分正しい。
大枚叩いて配給権を買ったのに、DVDの発売だけだと大損でしょう。
確かにねえ・・・今更って気もしますし、役者に知名度もない。
宗教性がキツすぎるようなつくりのようですから、倭国向きではない。
何がスペクタクルのウリだか知りませんが、戦車競争だと、SWのボットレース以上にはならない。
ガレー船同士の激闘ならば・・・ギリシャ海軍のように漕ぎ手が戦闘に参加するって派手さがないと受けないが
史実は曲げられない。
当時のバトルシップの主エンジンは人力である。
ギリシア船を例に取れば、総乗員は二百名で、漕ぎ手は大半の170名。
連合艦隊として二百隻くらいを常備していたらしいので、ざっと四万人の配備。
狭隘な国土に少ない人口からすれば、
分業なんて贅沢は許されないから「多能工化」
漕ぎ手であり戦闘員(ローマやペルシアはエンジンは奴隷のお仕事だった)
当然にアテナイ市民とは言えプロレタリアのお仕事
古代ローマの国の背骨とは、ケントウリア。重歩兵戦団であり、通常百人隊と言われる。
それに対して、古代ギリシャは海軍国であり、バトルシップのエンジンこそが国家の背骨である。
彼らの権益に配慮することこそが政体の基本であり、かかるが故に民主政が生まれた・・・とかの女史が喝破した。
歴史評価として正鵠を得ているかどうかは・・・・読み手が判断すればいいが、
ポピュリズムと言えば聞こえが悪いが、大衆を無視して政治は成り立たない。
そんな事は別のネタですから、このお蔵映画はアマゾンプライムでそのうちに見よう。
まあ、暇ならば(笑)
2017年2月22日水曜日
あの「黒い巨塔」のまえに・・・
医療関係者は「白衣」で、法曹界は「黒衣」
理由は様々らしいがさておき「巨塔」と名がつけばそれは権威である。
権威は、何かと批判の的になるが「雑音」なぞと切って捨ててはあまりよろしくない。
仰ぎ見るような権威であればあるほど、謙虚でなければならない。
衒学癖のある蝸牛は、ここで「晏子の御」なんかを得々と引用するのですが・・・これもさておき(笑)
裁判官・・・とりわけ最高裁判事の身分は手厚く保護されてますって、憲法を読めば読むほどそう思います。
それが良いことかって言われれば、ちょっと違うと思うのですよ。
なんちゃって一番強いのは国民自らの手で絶えず選ばれたり引きずり降ろされたりする権力の立場のことです。
参議院議員が衆議院議員の風下に立ち、総理大臣が慣例的に衆議院議員から選ばれるのもそれが所以である。
最高裁判事だって十年ごとの国民審査で罷免される事になっているが、複数回の審査の洗礼を受けたことも
罷免されたこともなく「形骸化」とはこれを言う。
真の司法権の権威の確立には、この部分の憲法改正が必要であり、焦眉の急・・だと力説するのは
蝸牛を筆頭にサイレントマイノリティだけである。
そうそう、裁判官弾劾裁判制度もありますが、これまた弾劾例は戦後では10件にも満たない。
それに・・・少女猥褻とかロクデモナイ。
そんな事案で弾劾される前に辞任しろよねえ・・・ヒトザルとしてのプライドも矜恃すらないんだなあ。
訴追請求は国民であれば誰でも出来るらしいし、結構な件数とも言われるが、つまらんチクリには興味がない。
裁判官の弾劾という以上、己の良心を偽った、独立して職務を遂行しなかった、憲法擁護に懈怠があった
なんて重大な規律違反が訴因じゃないとなあ。
三権としての司法の独立が担保されているのかどうかは・・・・部外者にはよくわかりません。
政権にとって致命的な違憲判決を出すと言うことがその証ならば、残念ですがそうとも言えなくもない。
怒鳴る奴の大統領令に反旗をひるがえすアメリカンの地裁高裁。
最高裁はどうかは知りませんが、それなりの司法の矜恃だという声が高いが...
リーガルミステリーや法廷小説は数多あります。
しかし、司法のシステム自体をマトにするフィクションは少ない。
作家の怠慢あるいは怯懦なんでしょう。
その意味で「法服の王国」は画期的だった(その理由は様々で、過去のブログでも見てください)
そして・・・・「黒い巨塔」
でも、なんだか読む前にオチが分かるって感じもしましてねえ・・・それにまだ廉価な文庫本がないし(笑)
とりあえず、同一作者の新書エッセイでネタにします。
瀬木比呂志
略歴からしてもトンデモナイ司法エリート(退官してますから過去形)
旧司法試験現役合格
赤門大学卒業
東京地裁配属
アメリカ留学
最高裁事務総局
最高裁調査官
あちこち地方の裁判所を転々ともしてますが、なんとも煌びやかな職歴
たった四十名位の実質最高裁判事である最高裁調査官をやれば
確実に偉くなれるのに、どうして大学教授に転じたのかなあ?
言いたい事が山とあるからって言う新書。
そんじょそこらの外野の売文の徒じゃないから
迫力あります。
2017年2月21日火曜日
プロ映画鑑賞家達はなにを選んだのか?
オタクの権化のようなマニアが選んだ2016年度のベスト映画(洋画邦画アニメも一緒くたで、約70名のメンバーによる)のリストが
送られてきました。
以下第一位から・・・
1)この世界の片隅に
2)シン・ゴジラ
3)ハドソン川の奇跡
4)湯を沸かすほどの愛
5)スポットライト
6)サウルの息子
7)キャロル
8)怒り
9)ヒメアノール
10)ブリッジ・オブ・スパイ
案外にオーソドックスです(笑)
洋画と邦画のバランスは半々・・・・昨年は、洋画が7本でしたから邦画の大健闘!
ベスト10までにノミネートされた作品が170本程度ですが、圧倒的に数は洋画が多い。
プロモーションの差あるいは力のかけ方により、対象となりうる邦画は集中し、洋画は分散する傾向は否めない。
うち半分の作品は、投票者が一名しかいないところがマニアックの証明でもある。
したがって、総得票ではなく「平均点」ランキングという見方をすれば・・・・(一人得票を除く)
海賊とよばれた男
PK
リリーのすべて
マジカルガール
ケンとカズ
葛城事件
FAKE
山河ノスタルジア
いずれもが「平均点が7.0超」です。
かなり景色が変わりましたが、趣味がきつくてなんとも言いがたい(苦笑)
ちなみに、蝸牛の選考結果は・・・・(邦画とアニメはいつも除外しますが)
ベスト10ランクイン作品は一本だけかぶっています(一本しかかぶってませんというべきかな?)
16位の「ボーダーライン」を10名もの審査員が投票しているのはちょっとびっくり(通好みな大衆作品だということ)
蝸牛のベスト上位4作品は、蝸牛のみしか選んでいません(いくらなんでも傾向的過ぎたか?)
なお「ワースト映画」のランキングもありますが、ワーストワンは「バットマン対スーパーマン」
これには素直に賛同。
よくしたもので、ベストとワーストの両方に名を連ねることが多いのですが、さすがにベストランキングには登場しませんし
この世界の片隅のほうもワーストには登場しません。
こういうところが「見識」ということでしょうか。
2017年2月20日月曜日
カジノの会計基準
IFRS(国際会計基準)に合致させることが正しいかどうかは別にしても、異なる会計基準で比較論証しても意味がない。
カジノ(賭博)の市場規模が会計基準の違いで大きく様相が変わるのであれば、ある意味で大きな問題ではある。
あちこちでまともっぽい論文が散見されるのですが、引用する側が無知なのかあえて眼を背けているのか知りませんが
どうも、導入推進派には後者が多そうに見受けられる。
曰く、パチンコの市場規模(20兆円とか25兆円とか)に比べるとカジノは「一桁少なく」影響度合いは少ない・・・・云々。
しかし、これは市場規模=売上高の認識の差異を無視した議論であって、同じものさしで比べるととんでもない世界が見えてくる。
売り上げとか売り上げがよってたつ原価の認識とはそう簡単なものではない。
簡単に言えば
グロス主義
ネット主義
の二つがあり、チップ(玉貸し料)の出払い額をもって売り上げとするのが前者で、
払戻金を控除するのが後者。
日本は伝統的に前者(企業会計基準の原則でもある)であり、ホールはもとより(建前は玉を貸し出す遊戯施設ということですから)
公営ギャンブルもそういう基準を採用している。
しかし、欧米のカジノは後者である。
したがって、どの程度の払戻金があるのか知りませんが、仮に80%とすれば、パチンコの「市場規模」なるものは4ないし6兆円に過ぎない。
逆に言えば、カジノの市場規模とはとんでもなく巨大なのです。
国際会計基準導入に際して、いわゆる「商社」がパニックになったのは、
古典的な商社のトレーダー事業とは「売り上げとは認められない」ということに尽きる。
理屈からすれば「売り上げよりも利益だ!といっても長年の習性は変わらない。
売上高の規模が営業マンの人格の優劣だと刷り込まれてきた以上、急に意識は変わらない・・・・
変わりたくないもんだから「売り上げあっての利益」なんて理屈にもならないことで弁明を始める(笑)
ホール経営者からすれば、我々は遊技場であって玉を貸し出すのが営業ですというだろうが、実態は三店方式による「合法的」出玉換金ビジネス
少なくとも顧客の90%は換金目的で「遊戯」をしているといわれている。
換金行為の合法か違法かに無関係に会計基準の原則からすれば「実態を見る」ということですからこの理屈は本当は通らない。
http://www.ptb.or.jp/06-pdf/ptb_accounting_st.pdf
さてカジノですが、基本法ができただけで、運営の細部は今後の立法に委ねられるが、そのころにはCPAの団体がちゃんとした基準をだすんでしょう。
そのときのルール次第ですが、IFRSに準拠となれば(少なくとも運営元は海外で実績あるカジノ業者ですから)、
既存の「合法」賭博業だって無関係とは言っておれなくなると思いますよ。
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