2016年5月13日金曜日

未知あるいは無知との遭遇





好悪はともかくも、現代史に於ける一番重要な外交関係が「日・米」である事は否定できない。
労働者の祖国だとか地上の楽土やら紅衛兵礼賛という数多い愚報をまき散らかしても、
日米断交を提唱するメディアはさすがにいない・・・割に、日米外交史をちゃんと説明してもらった覚えがない。
アメリカなんて、歴史的にたかだか二百年強。
だから一人で調べるにしても、しれてます(笑)


リスクは高いがリターンも大きい貿易を目指して、西洋人がアジアに押し寄せたのは18世紀の事
有史以来の祖法の「海禁」という外交方針の転換の時期であるが、変えるべき事を変える知恵も勇気もなかったのが
徳川政権の外交担当者達。
唐突にやって来た4隻の蒸気船に狼狽し、圧倒的な軍事力の差を背景とする砲艦外交に屈し、
譲歩に譲歩の結果・・・なら、同情の余地があるが、単に想像力の欠如と危機管理の懈怠に過ぎない。
見たくない事からは目を背ければ、事は生じないって・・・普通は「駝鳥倶楽部」と言いますが、
今でもありげなその心理的傾向は、江戸政権以来の負の遺産なのですなあ。


実のところ、ペリー来訪の半世紀程度前の18世紀末に、アメリカの冒険商人が毛皮の売り込みに紀州にやって来ました。
ロクにマーケティングもせずに売り込みにくるって言うアタマの悪さは、当時からみたいですが、当然すごすごと退散。
政府間、あるいは政府の意を受けた私人の接触ではないので、外交史にカウントすべきかどうかは疑念があるのですが、
有史来の「未知との遭遇」である事にはかわりなく、相前後して、英国やロシアなんかがやってくるのです。

ペリー来訪は、1853年のこと。
それまでに、アメリカンは十数回の接触を試みていますし、他国も含めれば、コンタクトは年中行事みたいなもの。
さらに、ペリー来訪の九年前には、オランダ国王は、親切にも世界情勢を踏まえて外交方針転換を勧めるのですが、
馬鹿につける薬とは、実際に危機に遭遇するしかない(笑)
半世紀もの時間があれば、色々と対策を講じることもできたのでしょうが・・・世の中メクラ千人ってことです。
往生際の悪いことに危機状態になっても姑息な対応しか考えない。
数多い日米外交の失敗や失態の濫觴がここにある。
関税自主権の放棄と治外法権の容認、もっと言えば外貨交換レート設定の失態・・・・
経済音痴が政務を担当するとろくなことはない。
失った国富は計り知れず、結果、貧すれば鈍する最悪の展開となり、手っ取り早く強奪外交を展開する。


近代日本、つまり明治政府ですが、政権担当者の苦闘(外交の自主性の確立)は半世紀に及び、
心ならずも、アジア外交の展開をいささか歪めてしまった遠因もここにありそうである。

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