2016年5月28日土曜日

東京裁判「批判」を批判する。




戦犯とは、簡単に言えば「戦争に関する犯罪者」であるが、何が戦争犯罪なのかは難しい。
古典的には「戦時国際法違反」のみを犯罪とするが、現在では「平和に対する罪、人道に関する罪」も含めて「戦争犯罪」とされる。
国際刑事裁判所も出来たし、メデタシ・・・とならないところが、奇っ怪な国際政治である。
アメリカと中国とロシアが批准しない国際的な枠組みなんてほとんど無意味である。
その意味で、国際社会とやらの行う軍事裁判(戦争犯罪法廷)とは法治の世界でなく、
相変わらず「勝者の復讐劇場」だと思っておくほうが理解としては正しいのかもしれない

悲観的な思考の過程でふと思いついたこと・・・
まずもって、戦争そのものは犯罪ではない。
かつては不戦条約なるものがあったが、ものの見事に実効はなかった。
戦争目的や個々の戦闘行為の適否が評価されることはあってもその程度に過ぎない。
以下は日露戦争開戦の詔勅の一部(日清戦争時の詔勅もニュアンスが似ています)


陸海軍ハ・・・其ノ職務ニ率ヒ、其ノ権能ニ応シテ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ。
・・・国際条規ノ範囲ニ於テ、一切ノ手段ヲ尽シ、遺算ナカラムコトヲ期セヨ。


要するに明治天皇は「戦争犯罪を起こすことなく、国家の目的(帝国防衛)を必達せよ」と勅諚したわけです。
一方で、大東亜戦争開戦の詔勅では「国際法規の範囲」という重要なフレーズが消えています(飯倉公館まで行かなくともNETで確認可能ですよ)
昭和天皇は非常に不満であったと伝えられていますが・・・
結果として「国際法順守」という国家意思は公式表明されなかった。


極東軍事裁判(東京裁判)の評価は様々でイデオロギーのリトマス試験紙みたいなものである。
公式に否定することは戦後世界感に対する修正主義者として徹底的に批判されるし、
民草の太宗は「A級戦犯=戦争犯罪人」だと思っているが、その一方で死者に鞭打つような真似には同調しない。


実のところ、蝸牛庵は「A級戦犯は紛れもない戦争犯罪者であり、罪万死に値する」という立場です。
しかし、いわゆる「戦争犯罪」の有無をその根拠にはしない。
明治天皇の指示的に言えば・・・「違算なく」の部分に違背した。
つまり、非常にわかりやすいことだが「勝たねばならない戦争に負けて」しまったことが罪である。
軍隊や軍人は作為・不作為を含め国家と国民のために戦争に勝つことだけが目的の存在である。
負ければ、理由の如何を問わずその存在意義がなく、国家に対する背信行為である。
そもそも「戦犯に対する処罰」とは、戦争にかかわる国益の毀損に対する犯罪の有無を論じ、必要により処罰することではないのか。
少なくとも比喩的にはそのようなニュアンスで使われる。
したがって、本来であれば、敗者自らが戦犯容疑者を裁くべきであったのです(戦後一部にはそういう動きがあったようですが・・・)


陸軍刑法典の目次だけをざっと見るに・・・戦争行為で敗残したことを直接処罰の対象にしているようには見えない。
勝負は時の運・・・ってことでしょうか?
国の存亡を骰子とばくのように取り扱ってもらうと困るんですがねえ。
作為であろうと不作為であろうと、国家公務員(軍人に限らず)がその職責を全うできなかった場合になんらかの懲戒を受けるのは当然であり、
それが、重大な国益に関する事案は、国民の審判に類することであって、官僚世界の懲戒権の行使で済ますレベルではない。
現行憲法では特別裁判所を認めていませんので、軍法会議(軍事法廷)は設置できず、
通常の司法権の範囲で罪状認否と量刑判断をすることになります。
これこそ「裁判員裁判」が一番ふさわしい裁判例でしょう(笑)
今の裁判所だとプロの裁判官だけで判断するのはいささか荷が重いように思えますから・・・


顔のないヒトラーたち


あまり話題にもならなかったが、これは重要な、実に重苦しい映画のテーマなのです。
ドイツ人自身が「アウシュビッツでの戦争犯罪」を裁いたフランクフルトだかでの事例の映画化です。
いわゆる「戦争犯罪」をドイツ人自らの手で裁くことが当り前のように考えており、ほかにも例が多々あるのかどうかはよく知りませんが、
少なくとも、倭国においてはそのような事案を寡聞にして聞き及ばない。

まあ、戦後ドイツの「戦争犯罪」への対峙の仕方は模範優等生みたいに世界から賞賛されてみえますが、
実のところは、タチの悪い詭弁に近いものであり、それはまたの機会に。



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