一応仏教徒の端くれだし、檀家の末席を汚している。
上座部仏教が波長にあうが、みてくれだけは真言衆徒である。
実の処は、無神論者ではないとおもうが、不信心無宗教に近い。
先祖崇拝程度だから、アニミズムとも言える。
老境に入り、戒名をツラツラと考える。
重い戒名(院号とか大居士)はカネ次第。
差別戒名と言う概念があるが、部落問題に関わらず戒名制度自体が差別的である。
職業差別か財力差別の違いでしかない。
洗礼名にはかような 話を聞いたことがないが、教会は不道徳な死者は、葬儀や埋葬を拒否するらしい。
地獄の沙汰も金次第と言う大乗仏教的感覚の是非はなんとも言い難い。
宗教とは言えカスミを喰っては生きていけない。
寄進寄付は生きるよすが。
免税特権がないと施設の維持も難しい。
しかしである。
真っ当に生きていく為に、安らかに死んでいく為に、我々が頼りにし、すがりつくのは、
国家の社会福祉政策なり末期医療を担うドクターやナースや介護士。
お寺の出番はどこにもない。
現世利益を政治力とセットで実現し、信者を集め、
其の対価が寄付と投票行動がマトモな宗教活動かどうかなんとも言い難いが、
葬式仏教よりはまだましかも知れない。
文化遺産としての宗教施設を維持運営する観光仏教も王道かどうなのか。
信仰の対象と観光施設は自ずと別物。
拝観料というが「言い換え」をしようとも、ご本尊を見世物小屋にするにはいささか首をかしげる。
ラングーン(・・とあえて言いますが)のパコダは、ビルマ人(・・つまり上座部仏教徒)からは
拝観料を取らない。
要するに、
葬式仏教
観光仏教
現世利益仏教 ・・・なるものしかないということになる。
そこでクレバーな蝸牛庵はもう一つ有るかもと考えるのです。
仏教界として個人あるいは故人情報管理にナーバスになっているらしいが、
有る意味で笑止としか思えない。
個人情報保護法の視点からすれば、多くのお寺は無関係。
しかし、ご先祖様の情報を握る事。
此れは新しい宗教のアイデンティティになるかも知れない。
他人に個人情報を握られる事にどうしてあそこ迄神経質になるのかは兎も角、
多くがナーバスになり、結果として「リスク」を感じてくれれば「リターン」もあるのだ。
IT会社の出番だなあ(笑)
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