2016年4月29日金曜日
「シュギシャ」という言い方
思い出すことも困難な大昔。
ある罵声(あるいは怒声)・・・・ オマエはトロツキスト(トロッキー主義者)だ!!
目が点になり、トロッキーは名前を知っている程度で、著作は読んだことがないんだが・・・
猪木正道さんの「共産主義の系譜」なんかを手がかりに「裏切られた革命」を読んで見るに
なかなかイケてる革命家じゃないか(苦笑)
なんだかホロコースト系映画が頻繁にスクリーンにかかる。
相当に上質な映画である(・・・あるいは思われる)が、今何故?って 天邪鬼は邪推するのです。
かの「シュギシャ」とはレッテル貼りである。
明確な概念規定があるわけでもなく、ただただ一見知的批判的に見せているだけにすぎない。
「歴史修正主義者」なる言葉もそれに似ている。
本来は新史料や既存資料の新解釈による「従来の定説や権威を覆すような仮説提示」をいう学者ですが、
一般には「定説を無視し、誇張や改竄された歴史事実を根拠に意図的な捏造史観を吹聴」する者を言う。
歴史は社会科学の一部門であり、その限りでは「科学」なのだが、
歴史評価というイデオロギーに触媒された途端に朱子学的な政治になる。
歴史には勝者と敗者は登場するが、それを善玉と悪玉に比定するという非学問的なやりかたである。
けだし、歴史は勝者がつくり(・・・・・しょうがないから、敗者は文学を作るってことかな?)
言ってみれば、歴史修正主義者とは、勝者の歴史に「オブジェクション」を唱える立場に立つものである。
勝者が敗者となることはないが、悪玉になるかもしれないって、これは勝者にとっては好ましくない。
従って、あらゆる腕力や謀略を駆使して「シュギシャ」を潰しにかかる。
南京「大虐殺」は幻である
いわゆる「慰安婦問題」は虚構である
大東亜戦争は「防衛戦争」である
原爆投下はジェノサイトである
極東の半島国のヒトザルがその限りにおいて歴史修正主義を唱えるのは勝手にさせておけばいいって
思うのが、西洋的エシュタブリッシュの立場(・・・ではないかと邪推している)
要はどうでもいいってことなのです。
しかし(ここからが核心)、その歴史修正主義が西洋現代史に波及すること、
とりわけホロコースト問題が広がることは絶対に避けねばならない。
ホロコーストがなかったという主張は、いまんところ虚言妄語だとされていますが、
地に潜むシュギシャはあまたおり、反撃の機会をうかがっている......と。
まず「サウルの息子」
ハンガリー映画であり、カンヌのグランプリとオスカー賞をとりました
収容所に送り込まれてきたユダヤ人を「ガス室で殺害し、その死体を焼却処分」したのはユダヤ人だったというお話です。
江戸時代のお武家と同じで、不浄な行為は自分でやらずに誰かにやらせる・・・・
ナチス協力ユダヤ人が同胞を圧殺する陰険な手口。
でも、分割して統治するシステムに一番長けていたのはエゲレス人。
ストリーの核心はそういうことではないのですが、
カポをセンターに据えたのはホロコースト物では珍しい。
次が「アイヒマン・ショー」
かのアイヒマン裁判をTV中継放送しようっていうメディア人の格闘物
現時点日本は公開予定状態なので、予告編で想像するしかないが、
本当に伝えるべき真実を真摯に伝えるっていうジャーナリズムのプリンシプルを描いたようです。
ホロコースト物というより「スポットライト」の系譜かもしれません。
歴史修正主義に対するユダヤ陰謀論を展開してもしょうがないのですが、
いつまでたっても「真実」を描く映画をこれでもかって突きつけるしつこさは学んだほうがいいのかもしれない。
そして「伝えたい」と思えば身命を賭してっていうスピリッツも同様である。
倭国の映像(に限らずだが)ジャーナリズムの殺風景で荒漠としたランドスケイプは見るに耐えない。
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