2014年6月1日日曜日

拡がるか・縮むか・・・



かつて「倭」といわれた日本。
中華思想では、近隣諸国を東夷・西戎・南蛮・北狄という。
一応「人偏」がついているから、犬畜生以上の正当な評価である。
委は、その姿の低くしなやかな様・・らしいので、
倭人とは、しずしずと内股で歩くのが似つかわしい「内向性」民族だと
当時のチャイナは、見立てたということである。
もっとも「矮小」という言葉もあるので、良い漢字ではないという声も・・・
 
 

島国だから内向きだということではない。
たまたま、内向き思考であったことをとらえて
事後的に「島国的」だと言っているに過ぎない。
だって、島国なんとかって言葉の歴史は、そう古くないし、
内向きだと断じられたことにより「縮み文化」なるものは席巻したわけでもなかろう。
内向的な性格が縮み文化を生み出し、世界に比類なき特質すべき文化の形成がなされたと考えるほうがいい。
 
しかし、文化は差異であって優劣ではないので、
縮み文化が下等で拡がり文化が高尚ではない。
約20年前に「縮み志向の日本人」という秀逸の日本人論が上梓されたが、
あらためて 本箱の隅から取り出し、真面目に読んでみた。
 
対比対立する二つを並べて、片方の存在を全否定するのはいかがと思うが、
日本の文化・風習を表現するに「微小化」を切り口とすることは
相応の納得感がある。

 
すべてを・・・
  
手繰り寄せ
そぎ落とし
折り畳み
握り込み
押し込んでしまう・・・のが縮み文化である。

例えば・・
団扇を折りたたみ式に扇としたのは倭人の発明らしい。
六曲一双(ろっきょくいっそう)の屏風なんかも、折りたためばコンパクトになるから、これもそうだろう
大自然を切り取って邸内にこぢんまりと再構築される生花・坪庭・盆栽、さらには茶室にいたる。
現代にいたれば、
ウオークマン・携帯電話・・・ 

   
しかしながらである。
微小化の反面には、「壺中の天」という思想もあります。
つまり
壺の中と言う極小世界のなかにこそ広辺無窮のコスモスがある・・とされるが、
それには一顧だにされない。
借景とは「外の山を自分の庭に引き入れる入れ子型の「縮み」とされるが、それはいかがなものか・・
微小化された自然を借景により極大化している
「菊を採る東離の下、悠然として南山を見る」・・に共感する以上
そう思うのが普通ではないのか・・・
茶室は、その完成度合いに従い、段々に狭くなり、最後には一畳半まで。
でも、それを見たイエズス会の宣教師は「市中の山居」と喝破したではないか。
狭い茶室が、山麓全体に広がるイメージを冷静に見とったのです。

 

些末な事で名著を非難するのは本意ではない。
なにごとも「ちいさきものはうつくしい」という美意識(枕草子)が
我々の精神性のバックボーンだという再発見を、素直に受け入れることである。

で、日本的美意識が薄れていくなかで、日本人が「拡がり志向」となったわけでもない。
縮み志向であるが故に、外向性を強く打ち出したときは、
外交的摩擦を生んだだけでろくなことがなかった。
得手な内向きを忘れ、下手な外向き志向だけに立ち位置を変えた
日本人の明日はどうなるのでしょうねえ?
少なくとも、英語ができないから国際化ができない・・と言っているうちは夜明けは遠い。






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