あの砂川判決において展開された「統治行為論」
半世紀前のことなのでリアルに当時識者がどのように反応したのかは知らない。
が、だいたいは想像がつく。
田中判決に曰く・・・・
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安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、
違憲であるか否の法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査に
原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、
裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するを相当とする。
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ところで、合衆国の国論を二分しかねない合衆国連邦裁判所の「同性婚」裁判。
僅差の反対意見は、同性婚が合衆国憲法に定める基本的人権に該当するかどうかではなく、
司法府が本来立法府の権限と考えられる事項について、
いわば強権を発動したことに対して警鐘を鳴らしているというのが岩瀬氏の解説です。
ある判事の反対意見
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選挙によって選ばれていない5人の最高裁判事が、みずからの自由に関する見解を
すべてのアメリカ国民に押し付けることができないよう、
最高裁判例ではデュー・プロセス条項の自由がこの国の歴史と伝統に深く根ざした権利のみを保障する
と理解すべきとされている。
そして、同性婚の権利がこのような歴史と伝統に深く根ざした権利とまではいえないことは明白である。
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ある種の「統治行為論」とも言えます。
連邦最高裁の判事は、大統領が指名し上院の同意を必要とする政治任命である。
任期は特になく、死去ないし自らの引退により辞任する。
倭国の最高裁判事のように国民審査の「試練」にあうこともなく、
その意味で「選挙により選ばれていない」という表現はまさに正鵠を得ている。
翻って、倭国の判事は選挙ではないが「国民の審判」を受けていることになっているが
制度の有効性に乏しく最初から形骸化しているといわれており、
更に裁判所自体がこの制度に内心反対だとつぶやかれてる。
しかし「司法権の真の確立」のためには、司法に関する憲法条文を改正すべきと考えます。
その意図は異なるにせよ、自民党の憲法改正案には一定の理解を示しており
更に「国民審査制度の一層の強化」を提言しているのが、昨年末ころの我が愚日記
http://ueda8823khj.blogspot.jp/2014/12/blog-post_89.html
愚だの駄だのって形容詞は「謙遜」です(笑)
かなり本気で真面目なんです。
三権のあいだの適度な緊張感が国家運営に不可欠であると思う立場からすれば・・・
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