2015年11月9日月曜日

「エール」の交換ってこういう風に・・・

乾いた感覚に根ざす確立された個が理屈っぽくり理性的にお喋りをするだけが
フランス映画ってわけでもない。
笑いや涙や、そんなものから演繹される感動とやらは映画芸術の敵・・・だと確信をもって言いますが、たまにはいい。

下半身不随の大富豪とアルジェリア難民の間の介護というバトル映画もテイストは似ている。
初夏の頃のフランス映画祭のオープニングがやっと商業スクリーンに登場した。

フランスの片田舎の家族四人の農家は高校生のヒロイン以外は聴覚障害者。
彼女には声楽の素晴らしい才能があり、パリで勉強したいが・・・・
家族には、彼女の才能を理解できないし、唯一の耳と口が居なくなれば、
生活にも支障が出る。
理解しようとする気持ちとの葛藤・・・ベタな展開なんですよ(笑)

手話も言語であるって何度も書きました。
ちゃんとした日本語体系として法律上も認知されていますが、義務教育で基礎程度を
教えることになっているのかどうかは寡聞にして聞き及んでいません。
身障者に寄り添う気持ちで手話を勉強する気持ちは尊いのでしょうが、
ちゃんとした日本語を学ぶという視座も大事だと思う次第。






この手のお話は予定調和のハッピーエンドですので、ひとしずくの涙を流したいのであれば、劇場へ・・・・
毎度の狂言奇語がご期待であれば、以下を・・・・苦笑

聾唖者と書きますが「差別用語」とされます。あえて書きますが、つんぼやおしと書けば
あるいは口にすれば「差別者」として指弾されます。
言葉それ自体に罪はなく、その単語を用いる個人の内面の問題だというような「正論」が通用しないのが、
またそれをおかしいとも思わないのが、今の日本語を取り巻く世界です。

龍の耳とは筒井康隆がいうように美しい漢字かどうかは疑問があるのですが、悪い漢字ではない。
どうして聴覚障害が龍の耳なのか?
諸説紛々でよくわかりません。
俗説では、龍には耳がない・・・?耳もどきがあるが、実は聞こえない?
出典が明らかでなく、こげなヨタ情報を撒き散らかすし、それを鵜呑みにする馬鹿が多いからネチズンは信用されない。
むしろ、漢字の成り立ちにかんがみ、構成要素より、形・音・義に照らし、耳に関係する漢字であるが、
龍は単なる発音を示すものって冷ややかな解説の方がいい。
もう少し親切に言えば、龍にはボンヤリって義もある。朧って漢字が傍証。
耳が少しボンヤリしてるんですといえば、いささか親切な説明になる。

この程度では狂言綺語とはいわない。
恐れ多くも、南方熊楠先生の向こうを張って十衒学的二支考的に述べれば・・・・
さて、
龍の成長・・・一人前になるには三千年かかると言われている。
最初の千年は、蚯蚓期。
次の千年は、蛇期。
最後の千年で龍の形態に成長する。
つまり、耳が不自由であるということは成長過程の一過性のことだということである。
やはり、美しい意味かどうかは別にしても、ある種な重要なMSGが込められた漢字だということにはまちがいはないのです。




で、出典ですが・・・・汗牛充棟の間で探索中。しばしお待ちください。

0 件のコメント:

コメントを投稿