2017年5月2日火曜日

百人一首




倭人の古典的教養として・・・とまでは言わなくとも社会常識として「百人一首」くらいは
知っていて当然だと思っている。
が、実のところ蝸牛庵はよく知らない。

歌人を百人集めるって事は、有名歌手ばかりのはずだが、結構漏れがあるし、首をかしげるような歌人が選ばれている。
選ばれた以上、その歌人の代表作だとまだいいが、なんともひどい選曲。
加えて、概ね時代順に並んでいるが、歌の内容の脈絡も因果関係もなく、仮にあれば選曲の稚拙さには我慢してもいい。


つまりは、全体の構成理念とか宇宙秩序のカケラも見られない詞華集だという事だ。
所詮はゲーム素材でしかないって事ですが、かかるが故に競技かるたとしては、つまらない詩歌のおかげで面白くなった
特に上の句と下の句の連携ってどれでもいいような歌ばかりで、よくお手つきをやるんですよ(笑)


日本の文学史上最高級の歌人が何故にこげな詞華集を編纂したのか内実は謎と言わざるを得ない。
友人でもある(たしか義理の孫息子になるはずだ)鎌倉御家人の求めに応じて編纂したとされるが、
その彼自身歌道の道に詳しく、よくぞこんなアンソロジーにクレームをつけなかった事だ。
当時の定家の盛名からすれば批判は許されなかった・・・・のかも
結果、後世も如何に選曲に瑕瑾がないかってくるしまぎれの論評が相次ぎ、
いつの間にやら「著名」歌人の「代表作」和歌集となってしまった。
まろ(わらわ)の代表作がこれ!ってことで平成の御代に伝わっているとすれば、
職業歌人としては、いやでなくとも憤死しかねないような風景である。


しかしながら、定家の向こうを張ってアンソロジーを編むって暴挙をやるだけの自負なり才能のある文化人はまあいないが・・・

丸谷才一
塚本邦雄

という日本古典の大家は果敢に挑戦しておられるし、そのアウトプットには、うしろずさりしこうべをたれる。
史上たった二人ですよ。
でも、どういうわけだか・・・
丸谷才一は、歌人まで選びなおしたが、塚本邦雄は定家の選んだ歌人のまま選曲だけを選びなおした。
塚本邦雄のやり方って、実のところ彼の言動からすればいささか・・・ちょっと物足りないというか
意味性が解らない。
だから、阿倍仲麻呂のように一首しか伝世していないと批評なり評価のしようがない。

だったら、暇だし三人目に名乗りを上げて・・・・と言うような暴挙をやる程蝸牛庵は馬鹿じゃない。
不本意ながら、これでもちっちゃな株式会社の代表取締役を引き受けて多忙なのですよ。





0 件のコメント:

コメントを投稿