2019年7月18日木曜日

恋歌




あぢきなくつらき嵐の声も憂し
など夕暮に待ちならひけむ


定家24歳の頃の歌集「二見浦百首」の収録歌
耽美官能を常とする幻影歌は当時の前衛であり...
曰く、達磨歌
意味するところはよく知りませんが、手も足も出ないかな?
文藝史上で指折り数えても必ずベストに入るだろうが、
毀誉褒貶激しく、熱狂的なファンがいれば、唾棄の対象と
思っている連中も多い。
正岡子規は貫之を下手くそと断じたが、
定家については歯切れが悪くて、傑作がない!
が、本歌取りをしたような俳句が結構あるらしい。
アララギ系の歌人は茂吉以外お好みではなく、
教科書に登場する子規の歌なんか読まされて..
我が身の不幸を呪詛したものだから、探し当てようなんて思わない。


定家が歌人として天才であったのは後鳥羽院との蜜月時代まで。
あとは...単に生き長らえただけ(別に後世に残る功績もあり)
彼の白眉はなんといっても恋歌、それも苦しい恋
もっとも、王朝文藝には明るく楽しい幸せな恋なんかない、
そんなものは文學にはならないってお約束。
ある意味で近代的である。


あぢきなく...今ならあじきなく(味気なく)と書く。
いろんな語義があるがネガティブな感情
夕暮れ時は、黄昏どき。誰かしらって人待ちの雰囲気の時間帯。
毎日毎日待てども待てどもオトコは来ない。
来ないオトコを待つのが習慣になり、
来るのは激しい松籟の音ばかりで余計に鬱陶しい。
涼やか爽やかならば慰めにもなるが、
無益で耐え難く苦々しさがつのるばかり...


下手な独善的な解釈ですから、演歌風になってしまった。
って言うか、王朝美学の残影を未だに引きずっているのが演歌

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