2014年9月28日日曜日

柘榴坂で「仇討ち」はなかった・・・




鐘は鳴る鳴る 夜明けの鐘が
古き習いは 消ゆれども
消えぬ恨みは 仇討つ人の
憎しや仇討つ 禁止令



報復の原理はどこにでもある
目には目を歯には歯を・・・
しかし、単なる復讐心の比喩だと考えてはならない。
正確な理解を言えば「仕打ちと報復のバランスを取りなさい」とことです。

仇討ちも、何でもかんでも許されるわけではない。
対象は尊属(親あるいは長兄)に限られ、事前認可制。
しかし、私刑の一種であることには変わりなく、国家による刑罰権独占の前に
明治6年太政官布告で、禁止とされた。

史上最大にしてダントツの人気仇討ち劇は「赤穂浪士による吉良邸殺傷事件」
いうまでもなく、国家により認知された制度としての仇討ちに該当しない。
主君とはいえ、主君の仇討ちは子ないし弟の特権でしかない。
主君の仇討ちとはいえ、単なるテロ行為。
獄門さらし首で当然のところ・・・武士の情けというか世論の後押しで
切腹と相成ったのは、量刑不当としかいいようがない。
被害者の気持ちに寄り添う・・・なんて情緒的な感情論は本来無用のことである。



井伊彦根藩の上屋敷は、今の憲政記念館のあたりあったらしい。
桜田御門までは目と鼻の先。
数十名の供行列が、雪の朝の不意打ちとはいえ
十数名のテロリストに、為す術もなく、主君を討たれるとは士道不覚悟。
汚名は末代まで残るが「主君の仇討ち」って、法制度上ありえない。
殺人容疑で、権力行為として江戸幕府が被疑者を追求されることだけが許される。
直弼のSPだった供侍が、家老の命で十年以上も下手人を追いかけるって、
創作の世界であり、ありえても、それは武士の一分でしかない。


 
作り物にふさわしく、仇討禁止令の布告日
供侍だったオトコは、車夫となった下手人と新橋あたりで遭遇し、
柘榴坂で立ち会うこととなった。
柘榴坂は、品川駅から登ってゆく坂である。
当時の傾斜は知りようもないが、雪の日に人力車を引いて登るのは至難の業で、
これまたちょっとありえない。


浅田次郎の小説は好きではない。
当然、映画された作品も好きではない。
別に好き嫌いに理由があるわけではない。波長が合わないってことでしょうか(苦笑)

大ヒットらしい「柘榴坂の仇討ち」
シニア割引世代には受けそうですが・・・
郷愁感だけが漂い、思想感情を創造的に創作したって思いたくば思ってもいいが、
類型化された武士道的倫理ってきっぱりと好きではない。

ちなみに、原作は文庫本で40ページ程度。
長編小説を映画化するには相当な刈込みが必要ですが、これはまだ切ればいいのだから
やりようがある。
しかし、二時間の映画に膨らませるには、かなり二次創作が必要で、腕が悪いと
無理筋な展開となる・・・






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