明治百年なのか明治維新百年か?
立場と思想信条で物言いはかわる。
ともあれ、昭和四十三年は、大政奉還から百年目の歳。
様々なイベントが行われたが、史観の饗宴ともいうべき出版事業は・・・
実のところ、記憶のラビリンスからは整理されて出てこない(苦笑)
残片的に言えば、当時の大マスコミは権威がありましたし、
社会の木鐸と上から目線でも、蒙昧な大衆はひれ伏したものです。
朝日は、大佛次郎の「天皇の世紀」
産経は「坂の上の雲」、
讀賣、毎日は記憶がないのでパス^ ^。
日本政府は「明治天皇録」の刊行。
高度成長の歪が見え隠れし出した季節でしたが、それぞれの立場で気宇壮大さを競ったのです。
倭とは、猫背な貧弱体格を意味するようですが、なかなかどうして・・・(笑)
大部な明治天皇録は、未見です。
しかし、これを基層にしたであろうキーン博士の明治天皇は、浩瀚であるが、迫るものがない。
昭和天皇実録に対して「裕仁の肉声が伝わらない」という批判がありますが、それに通じるものがある。
官製史伝とはそういうもの。
司馬遷、班固に代表される「人類の史官」ともいうべき崇高さを期待するのが間違いなのです。
一方、当時はライト臭さに乏しかった産経は、身内の気安さから連載を依頼したのだろうが、
司馬史観の集大成ともいうべき大作を生み出した。
明治という「国民国家」概念はファンタスティックである。
その後暗黒史観は陰を潜め・・・でも、教科書のトーンはあまり変わらない。
テキストより教え方の問題かもしれない。
反司馬史観を唱えれば、それなりにご本が売れるって風潮に悪乗りする向きは相変わらず
散見される。
しかし、白眉は「天皇の世紀」である。
著者は「鞍馬天狗」の作り手程度にしか記憶されないのは残念でしょう。
孝明天皇から無名の草莽の臣まで・・・
これでもかというくらい原典引用を行い、ミリ単位で、歴史的事象を切り刻むような
史伝体は、堅牢にして端正
彼の「パリ燃ゆ」も素晴らしいが・・・
残念なことに六年間の連載期間を経ても・・・未完である。
明治にはいっても、キリシタン弾圧は続き、罪人としての苦難の旅は続くってようなシーンで
終わっています。
明治天皇の生誕に始まり・・・いったいどこで筆を置くつもりだったのでしょうか?
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