2017年8月1日火曜日
天ぷら屋のカウンターが教室だった
相当先日のこと
何時もは白木の付け台なんですが、、、
ぐだぐだと茅葺音楽堂(迦陵頻窟)でのピアノディオコンクールでの愚痴なんかを聞きながら。
要するに、師匠姉妹がグランプリじゃなかったと言う鬱憤ばらし
確かに不思議なんですがね。
3位じゃご不満でしょうが、歴代入賞者によるグランプリ大会ですよ。
鼻差と思えば(^^)
師匠が口走るに「バッハはバロックだ」
蝸牛の音楽史の知識は限定的であり、中学校の酷い音楽教師から教わった事
そして、石井宏さんの反音楽史(これは名著!)の記述の記憶
思い起こせば、バッハは音楽の父であり、古典派の泰斗。
バロックの最後の巨人だなんて聞いた事もない。
もっとも、バロックは美術史では登場したが、音楽史としては全くの無視
ヴィバルディなんかが大人気になってからだ。
それまでは、グレゴリオ聖歌から一気にバッハやヘンデル。
時代的には十八世紀半ばまでがバロック
以降の十八世紀後半が古典派
技法的には(ここからが講義なんですがね)....
通奏低音とか、まあどこにでも書いていますから略(^.^)
確かにバッハのバリエーションなんかは優れてバロック風ですが、
古典派のような堅牢さもある。
ここからが仮説ですが、と言うか石井宏さんのご高説も
参考にすれば、
近代以降は作曲家がやたらと細かい記譜号を指定しますが、
古典派まではおおらかなもの
演奏家の自由解釈の余地が沢山あった。
かのゴルトベルクをモダン楽器でグールド解釈で演奏すれば
あれをバロックとは言わない。
どうも音楽界の宮中席次には疑問がある。
演奏家が作曲家の風下なのが当然なのか?
考えれば考える程釈然としない。
演奏のされない名曲なんかありはしない。
腕の良い演奏家によって初めて楽曲は真価を発揮する。
あの「涙の連絡船」は、歌い手は知っていますが、作曲家はだれだっけ
作曲家が君臨している以上クラシック音楽の明日はない。
と言うか、過去の遺産をこね繰り返しているだけとしか
思えませんがね。
そして末期的な事にエキセントリックな演奏が毀誉褒貶ながらに注目される。
もっとも、才能があるから斬新なのですが、
クラウス女史が言うように、才能があるんだから素直に弾けばいいのに(卓見!)
つまり「斬新」にも、まことの花と時分のはながあるのです。
講義という酔っぱらいの戯言は脈絡もなく、浜松音楽コンクールに飛ぶ。
紘子さんの尽力で一流コンクールと言われるようになったが、
なんと、今やショパンコンクールの登竜門だとか!
あの「芳ヶ江音楽コンクール」のモデルですが、課題曲のラインナップの考察とかなんとか(^.^)
難解ですなあ
通史的出題であることくらいは分かるが、課題の課題たる所以まではなあ。
とかなんとか、、、しかし、レッスン料は高かった。
銀座じゃなくて新橋の居酒屋にすれば良かった(笑)
あの「蜜蜂と遠雷」を読もうとアマゾンサーフィン中に
小説に登場する課題曲だらけのアルバムを見つけました!
しかし、なんとも酷いとしかいいようがなく(まさか買う人はいないとおもいますが)
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿