2015年5月14日木曜日

まなざしが語りかけるもの




ロベールブレッソンの言葉だと知れば「やさしいおんな」のヒロイン、ドミニクサンダを思い浮かべ、
その延長に「真珠の首飾りの少女」を容易に位置させる。
蓋し、眼は口以上に語りかけるものなのだ。
饒舌が虚しい事は太古より身に染みている。
曰く、巧言令色は仁にあらず。

静謐とは、いまや現代映画への最高の賛辞。
グランシャルトリューズを舞台とする台詞と音楽のないドキュメンタリーは、
異様な感動を与えた。
過度にデコレーションされたサウンドが古き無声映画への共感を呼ぶ・・・
と言う程度の論評では極私傾向主義とは言わない(苦笑)
いま我々は「話言葉」という言語への限界を身に染みたのである。

手話という視覚に訴える言語がある。
手の動きだけでなく身体全体で論理を展開する言語体系だと理解しているが・・

手話が登場する映画は稀ではない。
しかし、一切の聴覚言語が登場しない映画は、寡聞にしてきいたことがない。
自然音は聞こえるが、音楽は流れない。
字幕のないウクライナ映画。
まなざしと身体表現に目を凝らし、
内容を理解する異次元体験に足を運ぶような観客は、
聾唖関係者以外は、プロ映画鑑賞家だけだ(苦笑)

暴力的な映画であり、性的でもある。
いまのウクライナとはそういう存在だと訴えかけている。
衝撃的で絶望的で後味の悪い・・・でもそれが現実でしょうと言わんばかりの
エンドマーク。


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