そもそも「選良」と言われる方々はリベラルアーツを身につけているのか?
西洋の古典的な意味合いでの「自由な(奴隷階級でないという意味)人間としての基礎教養」である七科目は
当然ながら現代風にアレンジされなければならないが、その寄って立つものは同じだと思われる。
三学(トリウィウム)
・文法学
・論理学
・修辞学
四科(クワドリウィウム)
・幾何学
・算術
・天文学
・音楽
七科目とは、煎じ詰めれば「言語と数学」
さらに言えば、この基礎科目の上に「哲学」があり、最高位が「神学」
つまりは「哲学を学ぶための基礎的なストレッチ」にすぎない。
であれば「哲学」とはなんじゃいな・・・??
哲学とは学説ではなく活動である。
哲学とは理性による思考の明晰化である。
哲学という活動の本質は解明することにある・・ってヴィントゲンシュタインは言います。
小国寡民ならいざ知らず、グローバル社会においては
論理も情緒も多岐多様なヒトザルが巣食い、対等に付き合うには理性しかない。
論理的に客観的に説得し理解させるかがキモな社会であり、ムラ社会の対極に位置する。
目配せや阿吽の呼吸なんかに依存する余地はない。
そういう世界で自存自立できる存在であることを自他共に認められることが
所謂「選良」の必要条件である。
さて「トリウィウム」において重要視されたのがラテン語(当時の知識人の世界語)
今であれば「英語」
単に喋れますだけでは「パングリッシュ」という(笑)
論理的で理性的に(これを学ぶのが論理学)
加えて・・・美しく説得性をもって(これが修辞学)という・・・
言ってみれば「高度に知的なコミュニケーション力」を兼ね備えたってことになります。
巧妙なレトリックを駆使するためには「歴史や古典を咀嚼し巧みに引用する知識」が基盤となる。
ここまでは、現代でも通用する「学の大系」
徳川慶喜公が、帝国大学で民法や刑法を学ぶご子息に対して
ヒトの上に立つものが学ぶべきことではない!って言い放ったのは
けだしそういうことなのである。
ここではたと困るのが「クワドリウィウム」
リベラルアーツがリーダーに必要な資質だと考えた場合、
数学(天文学も運動論という意味での数学の一部)と音楽だけがどうして必要なのか?
多分「音楽」って、今のミュージックとは別の概念かも知れません。
よくわからないのでパス。
数学も、理屈しか扱わない形式科学分野ですから、理科系頭脳の限られた分野であり、
所謂自然科学の世界とは本質的に一線を画す。
自然社会は神の摂理で動く(・・と中世人は考えた)が、
形式科学の世界は限りなくデジタルに近い論理だけは支配する世界・・・
神が支配する世界を学ぶことは、哲学をも極めた以降のことなので、リベラルアーツでは
数学のみを学の対象としたのでしょうか・・・?
ここでカエサルだけが持ち得たとされる資質)(リーダーの要件)を考えると・・・
知力
説得力
肉体的耐久力
持続する意志
自己制御
数学よりもまずは「体育」でしょうってことになる(笑)
トリウィウムと体育だけで、これらの要件は満足できます。
さらに言えば・・・
人前に立つ以上「立ち居振る舞い(マナー)」も大事ですし、
なによりも「羊たちの名前」を覚えてあげないと・・・
翻って、我らが選良たちをながむるに・・・
一票を投じてくれる有権者のお名前はよく存じておられますなあ。
そして体力バカでも有ります(・・でないと過酷な選挙戦は戦えない)
さて・・・トリウィウム??
議員資格試験には、まあ反対がすくないであろう「TOEIC800点以上」・・(笑)
これで、
神輿ギャル
キャバ嬢崩れ
似非女優
退役アスリート ・・・等々お馬鹿の幾ばくかは赤絨毯から追放できるが、
この程度では、有意な人材を永田町に送り込むにはいたらない。
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