2018年1月7日日曜日

再読「ギリシア人の物語」





3分冊完結したところで案の定最初の頃のエピソードは失念している。
一連の歴史著作は史書ではないし、小説とも言い難い。
平時よりも乱世の著述が生き生きしていますし、
敢えて言えば強靭にしてしなやかな精神と肉体の持ち主達の史伝かな?
なんにしても、勝者の歴史でもなくて覇道批判王道讃美なイデオロギーにも毒され


女史の執筆意図は冒頭にわざわざ書いてますが、
書かないと意図が分からないような読者が多いのかねえ
書いたところで誤読しますがな(^^)
って事ですから半世紀にわたる愛読者が敢えて「誤読」してみました。


民主主義こそが最高の政体だとは思わない。
その社会の背骨たる大衆の最大幸福を実現できればなんでもいい。
第一分冊は、アテネ、スパルタ、ペルシアの三都物語なんですが、
ペルシアの専制君主制はいいとしても、スパルタを民主主義とは言わないのか?
特段一人の王様に権力が集中していたわけではない。
総人口の数パーセントの市民に実権があったし、
憲法裁判所みたいな選挙で選ばれる数名の監督官のパワーは王を凌ぐ。
その比率を論難してもいいが、スパルタの背骨は彼等重装歩兵であった以上
論難自体が無意味である。
一方でアテネは海軍国であり、バトルシップのエンジン(漕ぎ手)が
背骨であり、彼等はプロレタリアだ。
従い多くの市民に主権を与えざるを得ないし、与える事が国益に叶う。

民主主義が最高の政体だとは思わない...というのはレトリックです。
民衆に実質的な主体性があればそれを民主主義といいますから、
その意味ではスパルタだって普通は寡頭政治ですが、
民主主義と言えなくはない。


読み落としていたのですが、大好きな貝殻投票には最低投票率(数)が
定められていたそうな。
逆に言えば、以外にはそういう配慮は皆無であったという事だ。
これは示唆に富む(^^)
アテナイの市民数は数万人
最高意思決定の場に出席するのは一割程度ではなかっただろうか?
女史は貝殻投票の最低投票率を六千人と書くだけでそれには触れない。


低落する投票率を危惧する声がある。
政治行為に参加しないことも民衆の声だと思えばそれがどうした。
だから、あまりな投票率の場合は「選挙無効選良選出返上」こそが
民意だと蝸牛庵は主張します。

戦後民主主義あるいは戦後の日本の背骨は「健全な中流階級あるいは階級意識」
それが危機に瀕している事こそが「今そこにある危機」だと
サイレントマイノリティはおもうのです。

その事が悪いとかなんとか言ってはいません。
ある歴史の終わりは須らくそういうものですから、
新しい何かを考えるという行き方もあります。


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