偉大な先人達は立派なことを仰っています。
単に切り取りで前後の文脈が分からないので、勝手に想像すれば、、、
人間は教育により始めて人間になる(カント)
人間は生活により陶冶される(ペスタロッチ)
教育が学校で行われなければならないと言ったわけではないとおもう
家庭が教える...ユダヤでは父親の大切な仕事だったらしいが、マリア様はお母様が先生だった。
それば、単に父親が無学だからという理由(ゴスペルのどっかに書いているのだろうが未見)
ならば、イエスもお母様が先生だったのだろう。
しかしながら、近代という新しい時代
すなわち、3つの革命を経験して形成された時代
科学革命
市民革命
産業革命
では、これらの革命の成果物である、理性、論理、民主主義、資本主義....つまり合理的に考え行動し、社会参加する人間を渇望する。
ある意味でステロタイプ化した大衆を養成するシステムが必要になり、それが義務教育...というとそれらしいが、
Compulsory education
つまり「強制」教育というのが本義であるってキッパリと断言します。
吉田松陰は養父を師として、野良仕事をしつつ素読を習ったと言われるが、かような牧歌的な教育システムは今や異端であり、、、といより贅沢だ。
ヒトザルは合理的であれかし、合理的であることを押し広める事も合理的であると、近代国家とはかくもお節介なのである。
偉大な先人の言葉の正しい理解からすれば、奇妙な閉塞空間の学びよりも、社会の中で練磨される教えの方が本来的に在るべきだ!ということになるんだが、、、、
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