才能がないのか修練が足りないのか、多分両方・・・
あるいは業平同様に「意余りすぎ」のせいだと思うのですが、お稽古がうまくいかない。
没落しても鎌倉御家人としての矜恃を保ち続ける主人公の
生き様、心根を言葉だけで表現する、ある種の芝居能である「鉢の木」
主人公の心情に寄り添い、謡うのですが・・・・
下手ながら、四半世紀余り。楽譜通り(・・・謡本だって楽譜です。台本兼用ではありますが・・・)ならば、
即興だってできなくはない程度のレベルだと思っている。
内容を汲み取って、感情移入ともなれば、いささかトレーニングが必要だが、それも時間次第。
しかし、その感情移入が観客なりに伝わらないと、それは滑稽ってものです。
高踏にして象徴芸能とはいえ、芸の花を感じ取ってもらうもの。
シンボリックな表現では有るが、芸術は、目を喜ばせ、耳を楽しませ、心に響くものが最上。
その限りにおいて、上等も下等もない。
有るとすれば、その感動の継続性なり持続性だけで、多少不正確で有るが、時分の花ともまことの花とも言う。
花が有る・・・・芸術家への最大の褒め言葉であるが、花も様々。
時分の花とは、言ってみればウィーン少年合唱団のような天使の歌声である。
神が与えたもうた無垢の美。
花の命が短いことの代名詞。
声変わりと言う神の残酷ないたずら・・・
それを通過儀礼にして、「当座の花」が開く。
甲子園のヒーローがプロデヴュー戦に颯爽と登場すると思えばいい。
円熟したベテランに投げ勝ちでもしようものならば、翌日のデイリースポーツの一面は大変な状態。
しかし、冷静に見れば、珍しい花・・・だと蝸牛庵が言ってもハナであしらうだろうが、世阿弥師の言葉。
時分の花をまことの花と知る心が
真実の花になお遠ざかる心なり。
・・・
この時分の花に迷いて、やがて花の失するをも知らず。
初心と申すは、このことなり。
たがが、素人能楽師。
花のカケラもあるはずがない以上、忘れてはならない「初心」も
あろうはずがない・・・・だから悩むのですよ。
帰るべき初心をお持ちなプロ芸人は幸せだ(笑)
スランプなんて戯言を言うんじゃない。
素人の悩みの方がある意味で袋小路なのだ。
舞台まであと三ヶ月・・・・
・・・・・
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