2014年8月5日火曜日

仏学・儒学・蘭学・国学







一流と言われる出版社の浩瀚にして堅牢無比な全集もの
もっとも、読みもしないものを並べても虚仮威しがまるわかりなので
蝸牛庵の書庫には「岩波版日本思想大系」は・・・カタログでしか存在しない(苦笑)
パラパラと眺めるに・・・

室町時代までは、仏学
江戸時代は、儒学と国学    が思想の主流という編成
全巻で60巻強ですが、西洋系は数冊に過ぎない


信長の宗教政策(弾圧?)により、日本仏教が活力を失ったのは
歴史の教えるところ・・・というか本来の宗教の立場・役割を見失い、
物欲に目が眩んだ堕落集団に明日はないってことの証明かも知れません。
現代でも大規模な仏教系新興宗教は、それなり隆盛を極めていますが、
本来の仏の道かどうかに関しては、評価は様々である。
実のところ「なんちゃら真理教」が一部に注目を集めたのは、
その辺のユニークさではなかったと思っています。
学歴の高い信者が多かった理由もそういうところかもしれません。
仏教は、インド伝来だけあって極めて思弁的である。
修辞と論理を極めた学理の大伽藍には気が遠くなりそう・・・


江戸時代以前の儒学がどんなものであったか、よくわかりません。
少なくとも「科挙」の制度が定着しておれば、
半島国並みに儒教国になったことは間違いがなく、
その意味で不幸な歴史を背負わなかったことは幸いである。
中国の文物の恩恵に対しては足を向けて寝ることができないほどの感謝の念は
人後に落ちないつもりであるが、加えて「纏足・宦官」なんかが入り込んでいれば
国は滅びたに違いないとも思っています。
儒教が、宗教なのか哲学なのかについても論争がありますし、
朱子学以降、儒教の本質が変わってしまったのだろうと浅学非才ながら思ってしまいます。
政権の公認学派となってしまえば、風当たりも強くなる。
本来の孔孟の教えに帰るべきって古学推奨は、それなりの説得力を持つ。
江戸時代の儒学は、さながら百家争鳴の感がある。



仏学の衰退、活発な儒学論争は、かんながらの道(神道)にもなんらの影響を
与えたに違いない。
仏教伝来前の、儒学の影響を受ける前の「本来の日本人」とはなんだ?って
探求の欲求が高まったことは容易に想像がつく。
本来の日本人とは・・・

漢臭くさい道徳から開放された「浄明正直」・・つまり「レトビ-」な存在だと
いうのですよ。
潜在意識とは恐いものです。
ありのままに・・・アナ雪が倭人に受けた本当の理由はここにあるのです(笑)



そういう神道に裏打ちされた質朴な世界観や人生観がどうして
国家神道のような奇形児を産み、皇国史観が席巻したのか理解に苦しむ。
そもそも、神道は原始的な多神教であるが、国家神道は「天皇絶対神」という
一神教にしか見えない。
ある仮説ですが、蘭学・・耶蘇教の知識はそれなりに国学者に浸透しており、
あたかも

天照大御神の子孫=現人神たる天皇←→イエス=神の子

って構図がみえたに違いない。
あるいは、レトリックとして飛びついたのだろう。


日本思想史を綾なす「仏学・儒学・蘭学・国学」はそれぞれに有形無形の影響を与えながら、
グロテスクな昭和前期において「天壌無窮の神勅」というブラックホールにおいて
頂点をなした。
江戸時代の国学から一足飛びに国家神道が出来上がったというのは短絡であるが、
一般的にはそう受け止められている。
宗教を超越した国家倫理・・・・見るからに胡散臭い


戦後、それに代わるべきものは・・・「憲法前文と第九条」
ノーベル平和賞に値するかどうかについては論評しませんが、
さる5月18日、国民投票法改正案(日本国憲法の改正手続に関する法律)が
公布されました。
くにの「理念の改正」が具体的なスケジュールにのった画期的な一日です。
細部には疑念もあるのですが、まずは建設的に使いこなすことが肝要と
いうことでしょう。



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