2015年8月17日月曜日

とらぬ狸の・・・・なんとやら(笑)


去年は審査委員候補にすら選ばれませんでした。
発言なり、推奨する映画の視座が一般受けしなかったのでしょうか?
別に大衆に阿るつもりはなく、極私的な美意識だけを大事にしますので、
理解されなくともそれはそれで結構・・・とつよがりを言いますが、内心は(苦笑)

ですが、二年ぶりに「お誘い」がやってきた。
怖いもの見たさか・・・やっと映画祭の審査基準がボクに追いついてきたか(笑)
しかし、高慢な態度の割に「映画検定2級」どまりはいただけない。
いまさら、一級狙いも難度が高くなりすぎた。
別に学歴より学力なんだから、どうでもいいといえばいいのだが・・・
なもんで、一応審査員「選考試験」がわりの映画評の提出・・・要は審査委員適性テストです・・・があるので、
さあなににするか・・・悩んだ果てに。

マッドマックスでもいいが、やっぱり、見たヒトの少ないウルトラマイナー映画にしよう。
以下、大公開!(以前の日記の改版です)

でも、審査委員になれるかどうかまだ分かりません。


映画「トライブ」の批評
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まなざしが語りかけるもの・・・
と言えば、ロベールブレッソンの言葉を想起し、やさしいおんなのヒロ
イン「ドミニクサンダ」を思い浮かべる。
その延長に「真珠の首飾りの少女」を位置させるのも容易である。
蓋し、眼は口以上に雄弁且つ豊穣に語りかけるものなのだ。
饒舌が虚しい事は太古より身に染みている。
曰く、巧言令色は仁にはあらず。
静謐とは、いまや現代映画への最高の賛辞である。
グランシャルトリューズを舞台とする台詞と音楽のないドキュメンタリ
ーは、異様な感動を与えた。
過度にデコレーションされたサウンドへの反撥が古き無声映画への共感
を呼ぶ。
いま我々は「話言葉という聴覚言語」への限界を身に染みたのである。
手話とは法的に認知されたれっきとした視覚に訴える「言語」である。
映画に登場することも稀ではないが、一切の聴覚言語が登場しない映画
は、寡聞にしてきいたことがない。
自然音は聞こえるが、音楽は流れない。
字幕のないウクライナ映画が、あらかじめ失われた観客だけを対象にひ
っそりと公開中。まなざしと身体表現にのみ目を凝らし、内容を理解す
る異次元体験に足を運ぶような観客は・・「プロ映画鑑賞家」だけ。
聾唖障害者の男女若者達の閉鎖された世界は暴力的であり、性的でもあ
る。いまのウクライナの存在を投影するものかどうかは知らない。
衝撃的で絶望的で後味の悪い・・・でもそれが現実だと突き放したよう
なエンドマーク。視覚言語だけの世界から逃亡した主人公が、聴覚言語
の世界でどう生き延びていくのか・・・分からない。





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